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新坂を思い出すと亀沢が付いてくる。(オマケじゃないよ)私の膝に頭を乗せて心地よさそうにしていた姿が今更ながら愛おしい。
私は亀沢も手放したくはなかったのかも知れない。亀沢が私の友人と将棋をしている姿に嫉妬し、友人を憎しみに近い感情で見ていた。愛していたのは亀沢だったのかも知れないとさえ思える所がある。新坂の側は居心地良かったけど、切なく私を求める亀沢に私は母性愛を感じていたような節がある。
愛せるサイズがあるのだとしたら、あの頃の私の愛を注げたのは亀沢なんだろう。二人とも顔は忘れているが、私の中に残された記憶の違いがある。
亀沢は子供として、新坂は大人として。一人の人に大人と子供を見るのが理想的な関係に思える。偶然の出逢いで、与えることと受け取ることのバランス関係が自然と出来ていたのかも知れない。
恐らく私がもう少し大人になっていたら新坂の中にある子供を受け入れるだけの強さを獲得した時に新坂は自分の子供の部分も見せてくれただろうし、理解も出来ただろう。
あの頃の私は新坂の意識を凌げなかった。一人の人間の中には愛されたいと愛したいと言う思いがあるように思う。
同じ私なのに相手が変わるだけで別の要素が現れてくる。
他の人の感覚は分からないのだが、私は対象に合わせて自分を変化させる。ありのままの私があるとしたら相手次第で変化する私だ。ただ最近感じることはあの頃の時間が私の基本にもなっている。
愛したい存在とは自分の心のようなもので、愛されたいとは精神的な要素に思う。
恐らく、今の人たちは相手を感じているのでは無く、目に見えるもので判断しているのではないだろうか。
それでは相手の可能性が引き出せない気がする。心と言う存在は不思議な世界だ。如何様にも姿を変える。
私があの頃を忘れられないのは、損得の関係では無く、純粋な人間の関係だったように思う。
今では私の感覚でしか語れないのだが、人がくつろげるのが家庭なら、あの時の時間がそうなんだろう。
私の真上に部屋があった亀沢は私に合図をくれる時に床を叩くのだが、そう言う亀沢の行動が私は好きだった。
私の中の悪ガキの一部は亀沢に似ている。
人格形成に人との関わりがある。優しさは人と人を結ぶ絆であると私は思う。
二人ともいい人だったから出来た関係なんだが。
ついでに私が恋愛に拘らず、家族を根本的に求めていたと言うのもあるかな。
我が家にいた居候連中も暖かな家族が欲しかったんだろう。暖かな人間関係もね。
愛は金では買えません。人格でしか得られないのだとつくづく思うんだな。
関係も人間性が大いに関わってくる。未熟な人間と一緒だと精神的な成長は不可能だ。不可能ではないが、苛つくだけだ。
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