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男の背中を見ながら(ねぇ、あなた死ぬほど誰かを愛したことある?)言いかけて止めた この男がそんな風に誰かを愛した経験があればもう少しましな男になっていただろう 多分、苦しいほど誰かを愛した人って味わい深いものがあるんじゃないかな 人は傷ついた分人にも優しくなれるかどうかは分からないのだが、少なくとも経験のない人よりか人間としての魅力はあるのだと思える。 男も女も皆同じようなものではあるのだが、内面的な豊かさを備えた人は非常に少ない。その理由に情報過多があり、文明人のマニュアル的生き方が原因なのだろうと思われる節がある 個性と言われるものが全く感じれないと嘆いているのは私だけだろうか。私には子供が二人いるのだが、個性的と言うより現代的と言った方が正しいような気がする。私にとっての子供は他の人と違ってはいるのだが、それは個性とは全く関係のない私個人の意識に寄るところのものでしかない。一人の人間として見るよりか子供であると言う事実だけの区別でしかない。それと個性は別物。自分にとって特別な存在、それが子供であったり愛している人なんだと思
う そう言う人がいるかいないかで自分の在り方が変わってくるのではないだろうかと思えてならない 子供に関しては親としての責任からくる愛情も混じっているから、愛より情の方が勝っているのかも知れない 愛は共感的な要素が強いのだが、情は共有した時間や血の繋がりなんだ 共感的な感覚とは異なる 例えば、私の母親と私は一つの物の見方が全く異なるのだが、母親はそれを認めることは無かった 共感的であるならいちいち説明などいらないんだ 私から見た母親は常識を他人と共有しているだけの関わりしか持っていないのだが、それを彼女は個人的関わりと勘違いしている 私に関しても(自分の子供)としてしか見ていない それはそれで良いのだが、本当に愛すると言う意味からすると違うような気がする 身内の良い所は私が生まれた時の事を記憶している人がいるって事なんだが、私の母親に子供の頃の話聞いても記憶に残ってないようだ 本当にただ血が繋がっているだけの寂しい関係 愛していたら仕草とか忘れたりはしないんだがなぁ 写真にも写せない心の
アルバムがあるんだけど、私の母親にはそれがないんだ 愛している人は心のアルバムの中に生きていて、いつでも鮮やかに蘇ってくるものだと思う そう言うのって時間を超えた感覚でもある
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