携帯から書く日々ブログ
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携帯の待ち受け画面がマザー、テレサになっているのには理由がある。
現実を生きていたらマザーの祈りの意味が虚しい戯言のように感じれる時がある。私もそうだが、人はマザーやイエスキリストを尊敬はするが彼らのような道を歩く気は毛頭ない。だが、老いて無力になるとマザーのような心を持った人間を待っている。 嘘偽りのない誠の慈しみに抱かれ穏やかに去って行きたいのだと、瞳は無言の願いを投げかける。 死を目前に控えた人間が私に無言で訴えたのは死に対する恐怖では無く、(安らぎが欲しい)と言う願いだった。言葉にならない思いこそが人の心からの願いにも思える。 人間が愛と言う希望を見いだすのは最も暗い時なのかも知れない。 私自身も(愛)と言う曖昧な形のないものを説明は出来ない。だが、それが人間を生かしている源であることだけは否定出来ない。 生まれたばかりの赤ん坊には自分が他者から生かされているのだと言う自覚が無く、無意識に生かされている。 マザーの祈りはこの中にあるように思う。人はみな無力に生まれ人の情けに寄り生かされているのだと言う自覚が感謝になるのだろう。 しかし、現実の社会の中で生きていると謙虚な人は極僅かに思える。 心が貧しいのは与える知恵が不足した結果ではなかろうか。様々な仕事場を回って感じたことは、仕事の意味を理解せずロボットのように働く人々の中で人間性が損なわれているようにすら感じる。彼らが欲するのは社会から与えられるこじんまりとした肩書きであったり地位であったりする。そこには自己獲得と言う言葉はない。自己を放棄することで得るべきではない。社会は自己に奉仕してこそ健全なものになるのだと私は考える。 だが、私もこの社会で生きていてややもすると忘れがちになる。 待ち受け画面をマザーにしたのはそんな自分を戒める為でもあるのだが、今の日本でマザーが望んでいた祈りを如何にすれば実現出来るのかが私には分からない。しかし、多くの人は無意識の欲求不満から心の病を引き起こしているのは事実なのだ。 虚無感は人間が空洞化した結果引き起こされる。 人間に置ける空洞化とは他者がいない自我だけで構成された孤立的な世界に思える。人間が言葉を編み出したのは他者とのコミュニケーションによって、肉を食らわず意識によって自己を拡大する能力があるが故になのだ。イエスキリストの復活とは言葉の中にイエスの血と肉が込められて未来永劫、人の命の中を流れる血の川を意味するのではないだろうか。私はイエスは神ではないとの持論を持っている。人間が神に似せられ創られたと言う誇りがあればこそ私は愚かな人間の一人としてイエスのような人間性の獲得も可能なのだと希望を持つ。獣ではありたくないと言う私の誇りでもある。現在の社会は人間を食い物にし、肥大した化け物に変わり果てているのが事実だと感じている。 生きると言うことの意味を多くの芸術家や哲学者が語り続けているのだが、真意は伝わっていないように思う。 愛について考える時私は幼い日の自分を思い出す。食事もまともに与えられずにいたのだが、肉体を生かすにはそれで十分に思えた。 ただ、一つだけ私には我が儘な願いがあった。贅沢はしなくてもいいから、愛に溢れた日々を望んでいた。私が人間に生まれた誇りに自由があるとしたら、選択の自由なのだと思う。 せっかく与えられた自由を何に使おうかと迷いながら、辿り着いたのが単純な[心からの愛]だった。幼い日に無意識に受け取っていた愛を意識的に選択しただけなんだと思う。 ただし、私が選んだ愛は過酷な気がしないでもない。 そして、私は言葉を紡ぐことにも虚しさを覚える。 今更! 何千年も前から多くの人が血と肉を生け贄に捧げながら紡いできた言葉を今更改めて書く必要があるのかと疑問にすら思う。 PR |
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