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誰も本気で死を考えている時は言わないのだと思う。
自殺を考える時、私は加藤和彦さんを思い出す。安田和美さんを失った後の加藤さんの喪失感。
私の勝手な解釈に過ぎないのかも知れない。私の中の加藤さんと和美さんはアダムとイブのように並んで歩いている。どこに行くと言う訳でもなく、ただ互いに並んで歩ける喜びだけが声のない笑みとして響いてくる。
魂の喜びは声にはならない。外に向かって発せられるのではなく、命の中に沈殿するように思う。
生命を養うための大地を創造するかのような静けさを感じる。喪失感も言葉には出来なかったであろう。
助けて!と叫んでも闇の中に吸い込まれていくだけ。手を伸ばしても空虚の中でユラユラと心もとなく揺れるばかりだ。手に触れるものもなく、落ち行くのは奈落で大地ではない。加藤さんと和美さんが如何なる関係を築いていたかは私には分からない。
朝、起きるともういないのだと何度も思い知らされたかも知れない。
心から寄り添い生きてきた人間にしか分からない喪失感があるのだけは私にも分かる。
加藤さんも失うまではそれを想像は出来なかったのではないだろうか。喪失感と言う絶望。
安易に自殺をするような人間ではなかったと思うが故に苦しみや孤独感が耐え難いものであったのかも知れない。
自殺の報道を聞いた時、私は生きていて欲しかかったと言うような感想はもたなかった。(限界だったんだな)と呟いていた。
苦しみの中でジタバタするような人間なら自殺には至らないだろう。
助けて!と叫ぶ度に救いの手であった存在の不在を知る苦しみが蘇ってくるだけの繰り返しに何時しか疲れきってしまう。
命の限り生きねばと言い聞かせるのだがその後からとめどなく(何のために)と言う問いが返ってくる。
(生きていたらいいことある)この言葉は私が青函連絡船の甲板で見知らぬ人が私に投げかけた言葉だが、あの頃私は自分が自殺を考えて甲板に立ち海をみていた訳ではないが、妙に記憶に残っている。あれから随分時が過ぎ改めてあの日の光景と言葉を思い出す。
悲しいかな。私は(生きていたらいいことある)と言う言葉を否定している。
いいことが欲しくて生きているんじゃないのだと。
茨の道であろうが私の傍らを歩いている人がいるから歩き続けるのだと…
その人を失った未来は今日と言う大地のない空虚でしかない。
何かになりたいなどと思わずとも今日と言う大地が豊かであれば芽吹く命があるのではないだろうか。そう言う意味を込めて今日を愛し生きることが豊かな未来にも繋がっているのだと思わずにはいられない。
青函連絡船で私が聞いた言葉は私の無意識の絶望を伝えていた。私は愛すべき現実を持ってはいなかったのだと振り返り思う。
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