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私は最初から大切なものが何であるかに気が付いていた方かも知れない。
世の中の価値観に一度は沿ってみたが、満たされるどころか空虚感に苛まされた。
過去を振り返って思うのだが、誰もが心から愛されたいと願っている。この人の傍らにいたら、何だか落ち着くなぁと感じる時間はただボケ~としているのだが心に溢れるものがある。
先日、私はサライが働いている姿をチラチラ見ながら、神話の世界に身を沈めていた。
海の真っ只中にある岩場に私は一人でいた。最初の頃私は魚だったように思う。暫くサライと離れ、再びサライのところに帰ってきたら、私の好きなソファーは懐かしい故郷の海に浮かぶ岩場に変わっていた。サライが時々、姿を見せて[そこにいてね]と囁いているような気がした。同じとこにじっとしていられないはずの私が、永遠にこの静かな海の中にある岩場に座っていられるような気がする。
岩場の上で私は様々な空想を楽しんでいた。
サライは私に語りかけるように、私の前をさり気なく通る。[楽しんでいる?]
鼓動が穏やかに語りかけてくる。それが一番なんだと思うよ。
好きな人が側にいてくれて、別にこれと言った目標もないのだけど一瞬一瞬が楽しくて穏やかで、心から満ち足りている。私はあまり何かになりたいと言う夢がなかった。
とにかく好きな人が喜んでくれたら、頑張るタイプだから、単純なんだろうね。それで幸せでいられるから安上がりなんだが、私が好きになる人は極少数なんだな。新坂も同じだったんだろう。価値観なんだろうね。笑顔は好きだから、手当たり次第愛想を振りまくのだが、好きな人は別。
そう言うことに気づかされたのはサライに逢ってからかも知れない。
一人で幸せにはなれないんだと思った。サライが喜ぶから私は幸せでいられる。サライは素朴だ。
現代人にはない暖かいものがある。
私と似ているのは心から愛されたいと願っているとこかな。サライを見た時、[この人だ]と直感で感じた。名誉や肩書きなんてどうでもいいよ。
私は貧しい生活は苦にならないのだが、心が貧しいのは情けなくなる。
多分、みんな同じなんじゃないの。
サライのいいところは仕事に真剣に取り組む姿勢かな。
かっこいいなぁと私は思うよ。
そう言う気持ちが自然にサライに通じているんだと思った。私からは一言も言わなかったけど、私が望んでいる人間にサライが変化している。
無理して世の中の価値観に合わせないサライも本当の幸せを知っているんじゃないかな。
誰かを心から愛した時、人はみな18才の心を取り戻すのかも知れない。
私はその心で紡ぎたい物語りがある。
心から愛した時に人は生まれてきた喜びを味わえるんだと。サライにも私にも何もない。サライがいて私がいる。
それだけしかないけど、サライは私を世界一幸せな人間に変える魔法の力を持っている。
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黄色の車が通るとつい視線が行く。サライの車の色。で、サライの横に女が乗っていたらショックだろうな。
周波数と言うのがある。目には見えないのだが、そこら中を飛び交っている。
周波数が合うから受信が出来る。ってことは大概の人は知っているのだが、人間にも実は周波数がある。
言葉は人間が他者とコミュニケーションを取る為に出来た文化で、古来から進化し続けているのだが、言葉だけのコミュニケーションでは無く、人間は無意識に波長の合う人を選んでいる。相性とも言うのだが。
心からのコミュニケーションがとれるのは波長が合うからなんだと思う。
不思議なもので波長が合えば、言葉は少なくて済むと私は思う。
これは私がかって過去に付き合ってきた人たちが証明してくれている。周波数の電波が長いほど人が寄ってくる。
周波数と言う蜘蛛の糸に人が引っかかるのは寂しいからなんだよ。因みに、今、私の前に私と違う周波数を持った人がいるとしよう、そいつに周波数を合わせると会話は弾む!
一瞬にして相手の周波数をキャッチし、発信すれば相手も受信する。
その時、人は恋に落ちる。
男も女も無意識に似た者同士が自然に集まってくる。見た目は違うのだが放っている周波数が実は同じなんだ。
気の合う人と言うのは周波数に関わっている。
昨日、私はサライの店でいつものソファーに座り、本を読んだりしていたのだが、サライの気配だけは敏感にキャッチしている。周波数が合うと相手がどう言う状況にいるかが把握出来るから、敢えて説明もせず、無視していられる。
要するに自然体でいられる。
めったに会うことのない周波数を持った者同士は悲しいかなー相手を選べないのだ。この人しかいない状態に突入してしまう。
サライの横に女が乗っていたら、私は多分ショックで死ぬかも。
私は神様を愛していた。私を苦しみに会わされた時も私は愛していた。
優しいあなたが私を意味も無く苦しめたりはしないのだと。
人は相手が自分を愛しているかを気にかけるのだが、私は私が愛しているかどうかを胸に、心に問いかける。
愛していると言う答が返ってきたなら、黙って自分の心に従う。
恐らく、新坂が私を愛していたようにだと思う。その姿勢は穏やかで、ただ見守っているだけにしか見えないのだろう。情熱のない揺るがぬ愛は静かだ。
生まれたからには生きねばならないと私は思う。
私の心が誰かを愛したなら愛さねば、私は私の心を欺くことになる。他人に嘘をついたとて苦しくはないが、自分の心に嘘はつけない。
[愛している]そうとしか言葉には出来なかった。
姿の見えない存在に神様と名前をつけたように、私の心から溢れる思いに[愛している]と言う言葉を託した。
それは決意に過ぎない。証明する為には行動しかないのだと思う。
言葉で言うだけなら容易い。私にとって愛していると言う言葉は様々な内容を含んでいる。
時には冗談でその場限りのリップサービスであったり、面倒くさいから適当に歯触りのいい言葉として提供する。
それが真実かどうかは言葉の後に如何なる行動が伴うかでしかない。
賢い人なら言葉など鵜呑みにしない。私もそうだが、言葉は嘘半分、真実半分で聞いている。
いずれにするかは行動だと思う。
新坂は行動で示す人間だった。彼の行動は私への優しい気遣いと思いやりに満ちていた。
私が彼の横に並べなかったのは彼に恥ずかしい思いをさせたくなかったんだと思う。その気持ちに気づいていたのかも知れない。
そして、そんな私だからこそ新坂は愛していたのかも知れない。[あなたを辱めたくない]
背中にソッと手を差し出した時、私は許されているように感じていた。
あなたの側にいることを許されたのだと。
私は南国の生まれだが、島独特の身内意識が苦手だった。
みな、家族と言うように馴れ馴れしいのが性に合わなかった。無意識に私は彼らとは距離を開けるように標準語しか話さなかった。
その本当の理由は今でも分かっていない。14才の時に母に引き取られ大阪に来たのだが、大阪にも馴染まなかった。
母にもだ。
私は母から逃げるように東京に行ったのだが、東京にも馴染めず、何となく日本中をあてど無くさまよい、北海道に暫く滞在した。
金が無くなり、取り敢えず大阪に帰って、アルバイトを掛け持ちでやり、金が出来たら、即、北海道に向かった。
その時は住むつもりで行ったので、アパートを借り、デパートで布団やらを買い、毛布だけは持って帰った。
札幌の街を毛布を抱きながら私は泣いていた。
何故、こんなに寂しい思いをしなくてはならないんだろう、と言う思いが溢れて止まらなくなってしまった。だけど母の所にいても同じだった。
私と新坂が出会ったのはこの時。新坂と亀沢が二階で私が一階の5号室で、真上が亀沢と勘違いしていたのだが、真上は新坂だった。
床を叩いていたのはもっぱら亀沢だったから、勘違いしていた。
何故、彼らに会ったのか記憶が定かではない。何時の間にか私の部屋に新坂と亀沢ともう一人の男性がいた。奇妙な光景ではあるが、極自然でもあった。
極自然に新坂と私が付き合うようになり、三人のポジションみたいなものが出来ていた。
寂しいと言う本能は人がみな持っているものだと私は思う。新坂を思い出す時、特別な感情が全くないのが不思議な気がする。亀沢もだが。恋愛感情が全く無く、何時の間にか三人で過ごしていた。
亀沢との思い出と新坂の思い出は異なるのだが、根底は寂しいと言う思いなんだろう。
じゃ寂しいから誰でもいいのかと言えばそうではないと今なら言える。
寂しさにも波長があるように思う。新坂と亀沢が仲が良かったのは波長が合っていたからだと分かる。その二人の間に私が加わり、不思議な関係が出来た。
もし男が欲望だけで女を見ていたら、あの関係は築けなかっただろう。
亀沢は私に対して甘えはしたが、彼から欲望を感じたことはない。
私の膝枕や、一つ布団の中でくるまって私も亀沢も安心感だけを感じていた。
あの時の時間が特別な人間にだけ与えられたものに思える。(思いやり)と言う気持ちを互いに持った人間同士にしか味わえないものに思える。
新坂も亀沢も私には何の要求もしては来なかった。ただ一緒にいられるだけで良かったんだと思う。それは私の側に寄って来ていた居候たちも同じだったのではないだろうか。
新坂はちょっと違うのだが、彼は私を恋人としての証として刻印を付けていた。それが後に誰よりも傷つく結果を招くことにもなったのだが。
私が新坂を思い出したのは不思議な偶然からだ。
何気なく寄った店で私は奇妙な気分がした。最初からでは無く、何時の間にかだ。極自然にあの日に似た空気が私を包んでいるのに気付いた。懐かしい囁き(帰っておいでよ)
何時の間にか私とサライの関係が札幌で過ごした時と同じになっていた。
あの頃は無意識だったが、今回は認識している。この感覚は特別な感覚なんだと。
私の前をサライが歩いている。他人なのに不思議な連帯感がある(いるだけでいいんだ)サライも新坂も亀沢も同じ鼓動を送ってくる。
欲望のない美しい鼓動が私を安らがせてくれる。
ただ、側にいてくれるだけで安らぐ人がいる。
情熱が冷めて、ちょうどいい関係になった時に本当の意味で特別な人になるように思う。
新坂を思い出すと亀沢が付いてくる。(オマケじゃないよ)私の膝に頭を乗せて心地よさそうにしていた姿が今更ながら愛おしい。
私は亀沢も手放したくはなかったのかも知れない。亀沢が私の友人と将棋をしている姿に嫉妬し、友人を憎しみに近い感情で見ていた。愛していたのは亀沢だったのかも知れないとさえ思える所がある。新坂の側は居心地良かったけど、切なく私を求める亀沢に私は母性愛を感じていたような節がある。
愛せるサイズがあるのだとしたら、あの頃の私の愛を注げたのは亀沢なんだろう。二人とも顔は忘れているが、私の中に残された記憶の違いがある。
亀沢は子供として、新坂は大人として。一人の人に大人と子供を見るのが理想的な関係に思える。偶然の出逢いで、与えることと受け取ることのバランス関係が自然と出来ていたのかも知れない。
恐らく私がもう少し大人になっていたら新坂の中にある子供を受け入れるだけの強さを獲得した時に新坂は自分の子供の部分も見せてくれただろうし、理解も出来ただろう。
あの頃の私は新坂の意識を凌げなかった。一人の人間の中には愛されたいと愛したいと言う思いがあるように思う。
同じ私なのに相手が変わるだけで別の要素が現れてくる。
他の人の感覚は分からないのだが、私は対象に合わせて自分を変化させる。ありのままの私があるとしたら相手次第で変化する私だ。ただ最近感じることはあの頃の時間が私の基本にもなっている。
愛したい存在とは自分の心のようなもので、愛されたいとは精神的な要素に思う。
恐らく、今の人たちは相手を感じているのでは無く、目に見えるもので判断しているのではないだろうか。
それでは相手の可能性が引き出せない気がする。心と言う存在は不思議な世界だ。如何様にも姿を変える。
私があの頃を忘れられないのは、損得の関係では無く、純粋な人間の関係だったように思う。
今では私の感覚でしか語れないのだが、人がくつろげるのが家庭なら、あの時の時間がそうなんだろう。
私の真上に部屋があった亀沢は私に合図をくれる時に床を叩くのだが、そう言う亀沢の行動が私は好きだった。
私の中の悪ガキの一部は亀沢に似ている。
人格形成に人との関わりがある。優しさは人と人を結ぶ絆であると私は思う。
二人ともいい人だったから出来た関係なんだが。
ついでに私が恋愛に拘らず、家族を根本的に求めていたと言うのもあるかな。
我が家にいた居候連中も暖かな家族が欲しかったんだろう。暖かな人間関係もね。
愛は金では買えません。人格でしか得られないのだとつくづく思うんだな。
関係も人間性が大いに関わってくる。未熟な人間と一緒だと精神的な成長は不可能だ。不可能ではないが、苛つくだけだ。


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