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人間の深い所には死に対する恐怖が潜んでいる。死ぬことへの恐怖から人は身動きの取れない状況に甘んじて生き長らえているようにすら思える。
私が勤めている施設の利用者さんの殆どが死への恐怖よりただ生き長らえているしか出来ない状況を嘆く。お世話をする側にも命への真の理解はされてはいない。今、自分の目の前にいる人はあなた自身の未来かも知れないのに自分には関係のないことのように感じている人が殆どだ。
生から死までをトータルに考えて生きてはいない。目の前に現実に存在していても認識しないとないに等しくなるのだろう。
何故、人は死を恐れるのかと言えばそれが生から切り離されるからなんだが、生きながら社会の片隅に葬られるのは希望のない闇に生きたまま葬られれるに等しいのではなかろうか。昔からぽっくり寺と言う寺があったくらいだから、最悪の状況に甘んじるしかないならぽっくり死にたいと言う願いが込められている。実際にその類の苦しみを味わったなら死はかえって救いでもある。絶えず恐怖に怯えて毎日を生きるか、いずれ死ぬと腹をくくって生きるかで人は変わる。
施設の利用者さんに悲しい人がいる。いらぬお節介ではあるが(この人生きていて楽しいのかしら)憐れみしか感じれないのだが、苦しいとか痛いだとかの愚痴の果てには[死んだ方がまし]とのたもう。死ぬ覚悟のある人は愚痴は言わないんだ。彼女の側にいるだけで空気汚染を受けた気分になる。最も嫌いな人間はどっち付かずの人間だ。生きながら死んでる人間特有の腐臭が絶えず彼女から漂ってくる。無意識と言う闇に目を向け認識しないと墓穴を掘るのかも知れない。
人は気分次第で変わるものだ。私は利用者さんから[いつも明るいね]と言われるのだが、明日生きている保証なんてないんだから取りあえず生きているこの瞬間だけでも太陽のある方向、明るい方向に向かって立っているしかないんだと思っている。
不安や不満で未来どころか一寸先まで闇になるのはごめん被りたい。私の考えは楽天家と言われる。生憎私は神様でもないし、生身の人間なんでいつか死ぬことくらいとっくに知ってまんねん。
知っているからどう生きたいかを考える。生き地獄は人の心が生み出す闇に他ならない。
ついでに言っとくがソクラテスは汝自身を知れと言ったのだが、最も恐ろしい闇は自分の心にある闇なんだろうね。
明かるい人は深い水底のように透明な心を持っている。要するに自己認識の深さなんだと思うのだが。人間が恐れているのは今あるものを失う恐怖で、その恐怖は心を曇らせる源でもある。どうでもいい意識にしがみついた姿はまるでガキんちょだ。
固定観念を私は棺桶とも言うのだが[あんた随分狭いとこに住んでまんねんな]こんな輩の側にはいるだけで息がつまってくるようになるのは私だけかと思いきゃ、皆さん自由を求めてあがいている。[うりゃ!棺桶から出て来んかい!]
あんたの好きにしたらいいのだが、私まで巻き添えにはしないでくれるか。
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にいざかが私の名を呼ぶ姿はいつも…が付いてくるように心細げだったのが印象に残っている。
私の本名は知ってたはずなんだが、あんまり詮索しなかったなぁ。一緒にいる時のにいざかは穏やかでとても静かな優しさを漂わせていた。今にして思えば本当に好きな人はただ側にいてくれるだけで安らげるのだと思う。でも私の許しもなくセックスをしたのはヤバいんでないの。抵抗しなかった私も悪いのだが、私にハッキリと確かめてからにすべきだったんじゃないかな。
にいざかは人に無理強いをするタイプでは無かったから反応のない私に罪の意識を感じていたように思うよ。
抱きたいけど君にその気がないなら嫌だ!ってのもある。本心から好きだから、相手の意志をしっかり確認するんだと言うような感じはサライを見ていると分かる。私もサライと同じ気持ちだ。サライにその気がないならしたくない。
なんでも一方通行は寂しいもんだ。そう言うことが分かっている人って素敵だと思う。大概の人は独りよがりみたいなもんで、相手の反応なんか気にはしてないもんだが、にいざかとサライは違うのがよくわかる。サライもにいざかも私が嫌いなことや好きなことを分かっているんだと思った。
それは言葉一つにも現れていた。私が嫌いな言葉や場面が消え、好きな映像と言葉だけを選び出し編集されていた時に感じた。不謹慎にも私はあの日、体中が燃えるように震えだしコーヒー飲む手を抑えながら飲んだのを記憶している。
サライ…そう呼ぶとにいざかがまんが…と呼んでいた気持ちが分かる。とても切ない響きだ。まるで闇に沈むような響きがある。
地獄に落ちるような愛があるのかも知れない。孤独と言う地獄に 失うことに怯えていたのは私だけでは無かったんだろう。サライ…そう呼ぶとにいざかの切ない思いに胸が締め付けられるような気がする。
そりゃサライの所じゃろうが。話なんかせんでも落ち着く場所はサライの気配がある場所なんだろう。先日、利用者さんに[あんたが来てくれると安心する]
そう言われて喜ばない人はいないだろう。施設に入れられてしまうと自由は無くなる。人は命が惜しいだろうし、不自由な体では抵抗も出来ないのだが、それって生きていないよ。常に恐怖を抱いている人もいる。守られているのだと言う感覚ではないんだ。
不安を感じさせる人の特徴がある。精神的に不安定な人は如何に言葉使いが丁寧であっても不安を与えるものなんだろう。仕事場での私の立ち位置は本来の私ではないのだが、利用者さんが最も安心出来る精神状態に常にいることだろうとは思うのだが…その位置は子供を見守る母親の心理に近い。我が子では失敗したことがここでの教訓になっている。
しかして私の心と体が本来求めているのはサライの傍らでしかない。私は感情を嫌悪していたのだが感情にも美しい感情があるのだと知ったのだと思う。
サライの感情は時々アザミの花のようにトゲが突き刺さるのだが、花には変わりない。多分、そんな心境の時もあるんだろうね。最初の頃は可愛らしい花で初々しいしかったのだが、いつの間にか様々な花を心に咲かせる豊かな自然?じゃないか。荒々しい野獣性を帯びてきたような…それだけ逞しくなってんだろうね。でも本来のサライは優しいのを私は知っているから、笑っていられるし、そう言うサライもまた楽しい。精神的に同じ位置にいても咲く花は日によりけりだ。
関連があるのだろうと思う。癖が洗練され個性になると言っていた知人がいる。オードリーヘップバーンは100パーセント自分を分析することだと言う。これは自分を客観視することであるのだが、オードリーの場合は役者であるのだから自分が演じた舞台を総体的に眺めることが可能なのだが、一般人の私は今日あった場面を頭の中でもう一度再現することしか出来ない。脳みその中が私にとってのスクリーンになっている。過去の映像を写すと言うか記憶だな。
人間の脳は自分に甘いのだと言うことも考慮に入れないと偏った見方しか出来ないであろう。自分にとって都合の悪い部分はカットしかねない。それではいい作品は出来ないじゃろうが。
要はいい作品を作りたいであって、そこでの自分の役に拘っていてはいけないのだと言うこっちゃ。いい役者とは全体を生かす役者なんだと思う。しかして主役が曖昧だと脇役は立ち位置に困るってのもある。理想を言えば全ての人間が個性を持った主役であって欲しいもんだ。
個性と癖を分けるのは自己責任を問えるかどうかではなかろうか。最悪だった舞台を今一度振り返り最も良い結果を導き出すことを再検討する必要がある。
自らの非は素直に認めることが良い役者になる道でもある。因みに誰が主役なのかを認識していないと本末転倒になる。自己とは自分のポジションを把握し、責任を持ち守ることとみたり。
因みに人生は分からんもんだ。ある時主役がバッタリ倒れたりもする。お鉢が回ってくるのは結構だが人の尻拭いはごめん被りたい。
私は社会の指示は受けたくないのだが、この社会で如何に生きるかを自分なりに考え参加したいとは思っている。
反対するのも参加しているうちに入るってのもあるんだが、賛否両論、裏表、光と影、陰と陽で世界は成り立っている。たまには陽の当たる場所にいたいもんだ。
サライ、君は拷問にあっても秘密を守るだけの誠実さを持っている。君と目を合わせたあの日から私は君の目に似た人を探している。
確かめる為にでしかない。あの瞬間に感じたものが他の人からも感じることが可能かどうかを知りたい。
もし、君が幸せだけを望むなら私とは別れた方がいいだろう。私と関わらないことだ。
幸せな時に共に歩く人ならそこら中にうじゃうじゃいるだろう。探す必要などない。私が幸せの為にだけ生きていたならあそこで立ち止まったであろう。
正義はないと私は思っている。それと同じように幸せか不幸かはその人なりの考え方に寄るものでしかない。ただ、私の中に不屈な何者かが私に命じる何かを感じるだけだ。その主が私を不幸にするかも知れないのだが、逆らうことは出来ない。
人間の心からの愛も同じではなかろうかと思われる。あの日の君の目は拷問にあっても手放せない愛を秘めていた。対象は違ってもその心情は同じではないだろうか。
サライ、君は私にとって安らぎなんだ。君に最初の頃に言ったように希望でもある。サライ、君に私の味方になってくれとは思わないんだ。君が私の傍らにいてくれるだけで私は闘い続ける勇気とエネルギーを得られる。君が私の笑顔に元気をもらっていたように私は君の存在そのものに勇気づけられている。
嵐の度に私は神に祈っていた。否、神ではない。私の中の無意識にであろう。
無意識からの指令の後から私の意識は生まれてくる。
君に会った時、私は死ぬかも…と感じていたのだが、そこにも何らかの意味があるのだろうとしか思わなかった。無意識も同じだ。私には予測不可能な指令を下す。私は誰にも救いを求めない、これは私の人生なのだからただ最後まで貫くだけの勇気が必要なんだ。その勇気をくれるのがサライ、君なんだと感じている。形は違えど君と私はやはり似ている。君の不屈な沈黙を持って私も闘い続けるだろう。
私にとって人生そのものが苦しみでしかなかった。その中で唯一君に逢い安らぐ場を与えられたように思っている。
戦場に向かう私の足非常に重たく感じるのだが、君を思う心が私に勇気と穏やかさをくれる。


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