携帯から書く日々ブログ
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この二人がコンビを組んだら無残な結末が待っているような気がする。まず、今の世の中では生きては行けまい。
こんなことを考えていると、ふっと昔の相棒の新坂を思い出す。 私が自由でいられたのは新坂のような人間の前であったからこそのように思う。多分、彼は感情の激しい気質だったのだろうが、私と言う天然ボケが傍らにいたから理性的でいられたのかも知れない。 両方を行ったり来たりはしんどいものがある。 新坂と私の関係はいわば子供と大人の関係だったのだろう。人間は自分の優れた部分とバランスを取れる人を選ぶのかも知れない。 今では新坂の記憶もただ優しかったとしか残っていないのだが、彼が私を見守るように育ててくれたのは事実なのだ。 [昔のまんがだったら感じたままに行動していただろうね] それが出来たのは新坂が見守ってくれていたからだと思うし、新坂の中には殺したくないのだが、出せないものがあったのかも知れない。 感情的とはまた違うのだと私は思う。 そう言う感覚を私はサライにも感じることがある。 新坂やサライくらい強い人間ならば自分の感情を他人に代弁してもらう必要もないのだが。 野球で言えば、投げて、受けてをする訳だ。これって寂しいんだよね。 両方出来るんだが、寂しくなる。両方出来るから寂しいのか、どっちかは知らないんだが。 サライを見ていたら私と同じなんじゃないかなと思ってしまう。 多分、サライも新坂も私の自由奔放さを楽しんでいるのかも知れない。そう言うものに振り回されない強さがあるから楽しめるんだろうね。サライは私のことを[君はストレートなんだね]と言っていたが、私は感情を殺してまで生きていたいとは思わないんだ。 感情ではないのかも知れない。何となく感情とは違う感性のようなものかも知れない。面白いことをやらかす感性のようなものが私の中には子供の好奇心のようにムズムズと蠢いている気がする。 PR
毎度お世話になっている病院の院長はカルテは間違えるわ、薬は間違えるわ、で[おめぇ大丈夫か?]と多少の不安はあるものの私はこの間抜けな院長がいる病院の看護婦さんと院長が好きで、死ぬかもと覚悟しながらも通っている。
カルテを間違えたのは許す。私は女なんだが、カルテには男性の名前が記されているではないか。 性別くらい認識しろよな。 この病院は院長の人柄と看護婦さんの笑顔に支えられているのではなかろうかとさえ思う。 やぶ医者だろうが、明るいのが何よりの薬にもなる。 笑ってりゃ何とかなると思う時がある。私が今、誰かと一緒になるんだったら朗らかな人がいい。 その人の笑顔をみただけで脳天気になれるような人。 そう言えばゲーテも言っていたなぁ[物事をいちいちあまり几帳面にとらないきれいな妻がほしい。だが、どうしたら私の具合をよくすることができるか、よく心得ている妻がほしい]とな。 私はゲーテの心理が非常に分かる。 ゲーテほどの理性の持ち主なら自分の感情のコントロールはお手のものであろうが、コントロールされた感情では無く、[あれ!いつの間にか治ってるじゃん]自然治癒力を目覚めさせるような人がいいんだ。 技術や薬に頼るのもいいが、私に最も効く薬はどうやら笑顔のようだ。 今日、サライを見ながらつくづく思った。こいつが側にいると気分が勝手に良くなる。 寂しがり屋の私に効く特効薬はサライなんだろう。 ゲーテほどの人間なら機嫌を取られて良くなる訳じゃなかろう。ただ常日頃から感情の動きに絶えず気を付けているゲーテの具合を良くするのは理性的な妻では無く、ゲーテの感情そのものを代弁してくれるような妻ではなかろうかと私には思われる。 コントロールされない感情は美しい心から溢れてこそ流れる小川のせせらぎにもなる。 屈折していない、ねじれていない、歪んでいない、ストレートな感情なんだろうね。そう言う感情を素直に表す人を天然ボケとも天真爛漫とも言うのだが、ゲーテの複雑な性格には何よりの薬になるのだろう。 自然に芽生える感情を罪悪感も持たずに[あら!嵐よ] 嵐が来ようが槍が降ろうが脳天気でいられる人は馬鹿ではなれない。 感情を美しい花のように愛でる優しさがあるから天真爛漫ともなれるのだろう。如何なるものであれ自然に芽生える感情を否定しない強さがあったればこその天真爛漫と言う。 希薄な感情の持ち主では無く、自然に似た荒々しい感情さえも包み込む大地のような人を私も愛する。
携帯の待ち受け画面がマザー、テレサになっているのには理由がある。
現実を生きていたらマザーの祈りの意味が虚しい戯言のように感じれる時がある。私もそうだが、人はマザーやイエスキリストを尊敬はするが彼らのような道を歩く気は毛頭ない。だが、老いて無力になるとマザーのような心を持った人間を待っている。 嘘偽りのない誠の慈しみに抱かれ穏やかに去って行きたいのだと、瞳は無言の願いを投げかける。 死を目前に控えた人間が私に無言で訴えたのは死に対する恐怖では無く、(安らぎが欲しい)と言う願いだった。言葉にならない思いこそが人の心からの願いにも思える。 人間が愛と言う希望を見いだすのは最も暗い時なのかも知れない。 私自身も(愛)と言う曖昧な形のないものを説明は出来ない。だが、それが人間を生かしている源であることだけは否定出来ない。 生まれたばかりの赤ん坊には自分が他者から生かされているのだと言う自覚が無く、無意識に生かされている。 マザーの祈りはこの中にあるように思う。人はみな無力に生まれ人の情けに寄り生かされているのだと言う自覚が感謝になるのだろう。 しかし、現実の社会の中で生きていると謙虚な人は極僅かに思える。 心が貧しいのは与える知恵が不足した結果ではなかろうか。様々な仕事場を回って感じたことは、仕事の意味を理解せずロボットのように働く人々の中で人間性が損なわれているようにすら感じる。彼らが欲するのは社会から与えられるこじんまりとした肩書きであったり地位であったりする。そこには自己獲得と言う言葉はない。自己を放棄することで得るべきではない。社会は自己に奉仕してこそ健全なものになるのだと私は考える。 だが、私もこの社会で生きていてややもすると忘れがちになる。 待ち受け画面をマザーにしたのはそんな自分を戒める為でもあるのだが、今の日本でマザーが望んでいた祈りを如何にすれば実現出来るのかが私には分からない。しかし、多くの人は無意識の欲求不満から心の病を引き起こしているのは事実なのだ。 虚無感は人間が空洞化した結果引き起こされる。 人間に置ける空洞化とは他者がいない自我だけで構成された孤立的な世界に思える。人間が言葉を編み出したのは他者とのコミュニケーションによって、肉を食らわず意識によって自己を拡大する能力があるが故になのだ。イエスキリストの復活とは言葉の中にイエスの血と肉が込められて未来永劫、人の命の中を流れる血の川を意味するのではないだろうか。私はイエスは神ではないとの持論を持っている。人間が神に似せられ創られたと言う誇りがあればこそ私は愚かな人間の一人としてイエスのような人間性の獲得も可能なのだと希望を持つ。獣ではありたくないと言う私の誇りでもある。現在の社会は人間を食い物にし、肥大した化け物に変わり果てているのが事実だと感じている。 生きると言うことの意味を多くの芸術家や哲学者が語り続けているのだが、真意は伝わっていないように思う。 愛について考える時私は幼い日の自分を思い出す。食事もまともに与えられずにいたのだが、肉体を生かすにはそれで十分に思えた。 ただ、一つだけ私には我が儘な願いがあった。贅沢はしなくてもいいから、愛に溢れた日々を望んでいた。私が人間に生まれた誇りに自由があるとしたら、選択の自由なのだと思う。 せっかく与えられた自由を何に使おうかと迷いながら、辿り着いたのが単純な[心からの愛]だった。幼い日に無意識に受け取っていた愛を意識的に選択しただけなんだと思う。 ただし、私が選んだ愛は過酷な気がしないでもない。 そして、私は言葉を紡ぐことにも虚しさを覚える。 今更! 何千年も前から多くの人が血と肉を生け贄に捧げながら紡いできた言葉を今更改めて書く必要があるのかと疑問にすら思う。
[考えるのも面倒くさくなって]
最近の母は鬱の気がある。年老いてから何かを考える習慣の無かった者には余計に辛いのかも知れない。 常識と平穏無事だけが母の求める安らぎだったように思う。私と母はよく喧嘩になったのだが、母はすぐ泣いた。 私を理解しようなどと考えもしない母から見たら厄介な存在だったんだろう。親子だからこそ出来ることさえ母は面倒くさかったのか。私は娘とはしょっちゆ喧嘩をするのだが、それで終わらない関係があるから出来ることがあるのではないだろうか。 私は母に聞いた。 [何が一番嬉しい?]と。 出掛ける訳でもないから服もいらないし、食事もそんなにいらないと言う。 人に気を使うのが嫌いな人だったから、昔からの付き合いを大事にしてきたのはいいが、大概の人が母と似たような人間だから、話題は当然互いの知り合いの話に終始する。 母にもだが、自分の考えと言うものがない人が多いように思う。 その人らしい発想とでも言うものがあれば人となりを楽しい書物のように読み説く喜びがあるのだとも思う。 世の中の常識は人として当たり前の知識であって、そこに個人として付き合うような魅力はないと私は思うのだが、常識さえ知っていれば生きて行けると安易に過ごしているとつまらない人間になり、老後は平穏無事を通り越して退屈なだけになるのだろう。 今更、母に言ったとてどうなるもんじゃない。 人は老いて死ぬ定めであることをほとんどの人が知っているのだが、処方箋を持たないままに老いてから痛感する。 逃れられない定めならそれに勝るものはないかと考える。 死ぬほど誰かを愛したら死は安らぎにしかならない。でもそれでは愛する意味がないのではなかろうか。 穏やかで生き生きとした愛し方が理想に思う。それにはつまらない書物では無く、理解したいと思える存在になることではないだろうか。
[おばちゃん、こん中で誰に一番抱かれたい]この年になり、若者の好奇心の対象になるなんて思いもよらなんだ。
暫し、考える。 どの子が一番愛情を求める野獣なのか。私が選んだ子はサライに似た子。 愛されることを諦めた子には興味がない。大人になると気恥ずかしいから[認められたい]に変わるのだろうが、本質は同じだ。 何もせずに愛された時から、自己犠牲を払い愛を獲得するかに変わっただけ。自己確立とも言うんだろう。 人は愛する者の似姿になると言うのが私の持論だ。仲のいい夫婦は似てくる。 人間は神様が粘土をこねて創られたんだから、柔軟に出来てんだろう。 如何様にも姿を変える。誰を愛しているかは自分の姿を鏡に映し見れば分かる。ヘラクレスのような体型にサライの可愛い顔がのっかっている。奇妙なバランスなんだが、このくらい強靭な肉体でなきゃ精神を維持出来ないってのもある。 健全な肉体に健全な魂は宿る。これは一理あるんだ。 精神世界に身を投じる時にダイバーみたいな心境で挑む。 ある程度までくると自分の沈潜力の限界が分かってくる。水圧に耐える体力と孤独を恐れぬ精神は柔な肉体ではミイラとりがミイラになる。こうなると自ずとダイバーになれる資質なるものが備わっているか、否かが見えてくる。 抱かれたいと思った子は資質が十分にあり、尚且つ、環境も揃っている。 過酷な現実に立ち、理不尽に怒りをたぎらす未来の英雄に乾杯だ。 |
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