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携帯から書く日々ブログ
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何かになろうと言う意識は今でもない。昔はあらゆることがコンプレックスになっていて、もし私が違う人間ならとも考えた。側にいる男とは一緒になる必要は無かったんだろうと言う無意識があった。男にはそのことを話したのだが、何と返事が返ってきたのかは忘れている。
多分、あの頃から私は後悔していた、と言うより諦めだったように思う。コンプレックスがあったからこそ頑張れた。自分を変えたいと思っても一日では変えられない。正に(ローマは一日にしてならず)なんだ。ただ自分に課した課題は単純だ。今、目の前にあることを楽しんでやることといつでも笑顔でいること。でもゲラゲラ笑いは好きじゃない。ふわぁ~と溢れるような笑顔でいたい。
心から誰かを好きになるとそんな笑顔も自然に溢れてくる。やはり、自分の気持ちは正直に認めるべきだったと今では思う。
例え、相手から愛されなくても自分の気持ちを正直に認めるだけでもいいのだと思うようになった。深い沈黙には好きな人がいる。誰もいないよりいる方がいい。ただ、自分の心にだけ秘めている強い思いがあるから、孤独な沈黙も苦にはならないものだ。
嫌いな人を思い描くより好きな人を思い描く方が楽しい。
それが悲しい結末を迎えようが好きと言う気持ちは変わらないのだと思う。
過ごした時間は私が生きている限り記憶に残る。私はムッツリスケベなんだろう。時折、昔の人を思い出しては苦笑と一緒喜びが溢れてくる。
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人の後を付いて来るだけしか脳がない人間は尻拭いしか用はない。金魚のふんじゃあるまいし、とも思ったりする。
自発的に考え行動する人間は金魚のふんを嫌がるものだ。
昔は私も人の後ばかり付いて歩いていた。但し、好きな人の後なんだが。
時折、振り返って(付いて来てるかい)と微笑んでくれるから幸せになる。
マイペースに歩く神様の後を貰い主のいない野良猫のようにピトッと引っ付いて歩くのが私の癖みたいなもんだ。
あの頃の私は手塚先生の漫画のキャラクターのピノコにも似ている。いい年になっても変わらない習性なんだろう。
好きな人が出来るとやたら張り切って頑張れる自分がいる。ただ、好きな人に振り向いて欲しいが為にだけ。
金魚のふんには主体性がない。依存しているだけ。
本当に好きだったら恋の力を自分自身を輝かせる為に使う。誰かの為なんてないんだと思う。経験の全ては自分自身の輝きと成長の糧でしかない。
金魚のふんでは腐るだけだ。そんなのは恋でも愛でもありゃしない。
より美しくなり、愛した人にありがとうが言えるのがいい。傷ついたなんて考えないで、ダイヤモンドのカットのように経験を刻んだのだと思えばいいんだ。
ダイヤモンドはカットの数だけ美しくなる。
金魚のふんのように人と付き合うか、経験として我が身を磨くかの別れ道は依存しないことじゃないかな。
今以上に苦しい思いが心に残っている。辛くなると思い出す。(このくらいの辛さはどうってことはない)
却って苦しい思いを打ち消してくれるだけだ。そう思うから超えられる峠がある。気持ちの切り替えがいい方ではないのだが、過去にあった様々な出来事が私に与えてくれた強さがある。
いい方に解釈した方が得だとも思う。真実は違うのだろうが、認めた上で都合のいい解釈を編み出すのが私は得意なんだろう。
辛いとボヤいて暗がりに撃沈していたくはない。人間には考える頭があるのだから自然や環境の意のままでは無く、明るい方に思考を持っていきたい。
それでも心の中の悲しさや寂しさが消える訳ではないのだが。自分の心を騙した後に感じる寂しさがある。
(仕方ないんだ)
心のままにならないことはたくさんある。そう言うことが積み重なっても心を保ち続けていたい。
悲しみや苦しみをたくさん蓄えた心もいいもんだ。(多分、やせ我慢だけどね)
本当の忍耐強さってそんなもんじゃないかな。でも一つだけ手放したくないものがある。誤魔化したくはない願いがある。叶わずとも私の希望だから、捨ててしまうことの出来ない心からの願いがある。
神様と私だけが知っている真実の願いがある。
笑顔が私の武器。
誰かを傷つける為に闘っているのではないのだから。
幸せになって欲しいとの願いを込めて、笑顔の武装をする。決して私の本心には気付かれないように細心の注意を払って。
人に説教をするのは好きじゃない。自然がいい。太陽と北風の話のように、人が笑顔になってくれたら私も幸せな気分になる。それだけだ。だが、誤解も受ける[あなた会社勤めしたことないでしょう]会社勤めの経験はあるが、ドップリ浸かったことがないだけだ。集団に入る時はいつでも逃げ出す用意をしている。
自由奔放とも言われる。他人からの拘束は受けたことはないが、私は自分で自分を頑丈な鎖で縛りつけている。
いざとなったら鎖は首をくくる道具にもなる。今の所そんな心配はしていないが、いつまでこの穏やかさが続くかは神のみぞ知る。
そう言えば、私の弟は、朝、犬を連れ散歩に行き、帰らぬ人となった。
犬の鎖を自分の首に巻き付け死んだ。そんな風にはなりたくはないが、覚悟はしている。
ただ、息をしているだけの生き方なんてしたくはない。
生きるって闘いなんだと思う。でも誰かを殺して奪うものじゃないし、またそう言う人は嫌いでもある。
自分としっかり向き合って、自分を監視していたい。
まるで、猛獣の唸る牢獄の番人の気分だ。あばれたくて牢獄の中を徘徊する猛獣の群を解き放つのは私の意志にかかっている。
その時は情け容赦はしないであろう。
心なのか魂なのかは知らないが私の命の中には人間の手には負えない猛獣が住んでいる。
悪魔とも呼ぶんだが。神でもある。
我が家には朝から人がたむろしていた。昔で言う所の井戸端会議場みたいなものだ。誰彼と無く自然に人が集まってくるのが私の特徴なんだろう。
寂しがり屋の私からは人恋しさが放たれていたのか、その割には一人でいる方が好きだったんだが。自宅の隣で小さなブティックを経営していて、来客の殆どはお客様。
高価な服を買って頂く為にはある程度機嫌も取る。邪険に扱う訳には行かなかったのだが、客の殆どは自分の意志を持っていないように思えた。
気分良くさえさせてくれたら、高価な服にも惜しげなく金を払う。私はこんな客が嫌いでもあった。朝から来て夕方まで動かない客の殆どが寂しいのだと感じていた。
我が家のようにくつろげる場所に人は集まって来る。だが、私は彼女たちの会話に入る気にはならなかった。いくら高価なファションに身を包んでいても内容のない人間との会話は虚しいと心の中で呟いていた。
チャラチャラ着飾るより、もっと素敵になれる可能性がある。安いTシャツを粋に着こなすそんなファションが私は好きだ。
それを可能にしているのは生きる姿勢に思えた。
寂しさにも耐える強さがないと素敵な生き方は出来ないのだとも思う。日々、闘いだとも思っている。愚痴を言わない、テキパキ動く、言い訳をしない、いつまでも同じことに拘らない。
自分に課した課題は出来る限り守りたい。しかし、これらを私に教えてくれたのは私が会った素敵な人からだ。彼らの姿勢を何気なく取り入れているうちに心情までが分かるような気がする。
背筋を真っ直ぐ伸ばして立つ時、石川さんの生き様が自分の内部で描かれていく。(あー彼はこんな気持ちで生きてきたんだ)
人は鏡だ。毅然とした姿勢で生きていたい。私と石川さんは短い付き合いではあったが、それだけで十分彼の生き様を知ることができた。
会わなくなって随分時が過ぎたのだが、今でも彼の姿勢だけは脳裏に焼き付いている。
私のものにしたい。あなたの生き様を。


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