忍者ブログ
携帯から書く日々ブログ
[2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

カラオケに行ってもまず演歌は歌わない あれはよわっちい男が描くところの女像だと思うからだ ジメジメした女や、男は大嫌いだ かと言って下らないお喋りにうつつを抜かしているのも嫌い まだある 男のゲラゲラ笑いは幼稚さを丸出しにしているだけだ ゲラゲラ笑う男で賢かった奴はいない さも俺は明るいんだぜ!と言わんばかりにやたら意味もなく薄気味悪い笑いをふりまいてやがる 昔、男は黙って札幌ビールと言うのがあった 無口な男は好きだが、これにも様々な意味がある 己の無知を隠蔽するために黙ってる奴 こう言う輩は都合の悪いことは口にしないだけの話 因みに今まで真剣に私にアプローチしてきた男たちの殆どが[優しさ]ではなく面白いと言う理由からだったように思う で、最近私は優しさに釣られてくる男に狡さと弱さを見てしまうのだ 私の中でいい男なり女を選ぶ基準に[私のどこを好きか]がある 私もそうだが、優しいだけの男は退屈極まりない 但し、新坂やサライの優しさは私の面白さを楽しめるだけ
の度量があるから別だ こんな男はいざとなれば本領を発揮する 些細なことでは動じないのも男らしさである 私がやらかす馬鹿げたパフォーマンスで大きな支障があるか、ないかの判断がしっかりあるんだろう 要するに自分の中にしかとした判断基準を持っていると言うことだ とにかく演歌は不愉快極まりない 気分次第で人生も変わったりする 演歌は気分が滅入る 悲しい時に自分にパンチを食らわしながら生きてきた私だ
PR
男と言えるような男は過去から数えて三人だけに思える 女も同じだ 形だけの男や女は五万といるが内実共に男であり、女であったのは少ない 大概の男や女は形だけの存在でしかなかったように思える 理想的な女に梅沢富男が演じる女形がある なよなよした女ではなく華やかな色気を振りまく妖艶な女だ 彼は男だが、頭のてっぺんからつま先まで女としてのイメージが行き渡っているような緊張感がある 桑田佳祐が歌の中で[しなやかと軽さを履き違えでいる]と歌う 弱さと優しさもついでに履き違えでいるんだろう 見た目が似ていて間違える輩が多い 先日もとある所で顔見知りの男に会った 私と誰かを比較し[あなたは優しい]とのたまう 優しさに釣られてくる馬鹿が多いご時世だからね 言ってやった [みんな優しい人が好きなんでしょう?] 多勢の馬鹿に応えて優しい女だけを前面に押し出しているだけなんだが 器の小さい男には分からない複雑な女の心理がある 私は女は女の形に生まれてきたのだが、誰に対しても女
になる訳ではない
女としての価値のない女は大勢知っている 男も然りだ 種馬とガキを産む腹だけを備えた男と女に出来るのは雄と雌の遺伝子を残すだけだ 言っとくが本物の男は自らの意志で男になりたい、と切望している そんな男だからこそ女も本物の女になるのだと私は思っている
女の愛は愛する人を生み出す 子宮ではなく精神で女は男を誕生させる 度々、サライを引き出してしまうが、人々が社会の中で出世だけを目指している中でサライだけは[俺は男だ]そう断言していた 断言せずともサライは見るからに男でしかない 大概の男が男根にしか男の証を見るような浅はかな人間ではなかった 上っ面の男や女は掃いて捨てるほどいる 挙げ句の果てには男女は対等である、と言う 確かに対等ではある 但し、異なる存在としてだ 男も女もごった煮にされちゃ意味ない 役立たずの男と女にできるのはガキを産むことだけだ
職場に行くのが怖くなる 世の中が彼らを作ったのだと同情もするが、世の中に流されるがままに何も考えず行動する彼らを恐れてもいる 彼らの中に入っているとサライと言う人間の存在も嘘のように思える サライを思う時祈るような気持ちで呟いている(現実に帰らないで…)この現実に立ち向かって闘える人間はそういない 敗北の結果、卑屈になるか孤高の王者を気取るか どちらにも行かず精神の中立を保つにはよほどの精神力を必要とする
かって私は寂しいと言う感情から人々に迎合していた 今は孤独の中にいる 出るに出られない、とでも言っておこうか 孤独な世界から迎合し、へらへら笑いながら嘘で塗り固められた過去の自分を眺めると憐れみすら感じる サライに会ったのもその頃だった 新鮮だった 上っ面だけの仮面を被った人間の中でサライは何の装いもせず素朴に佇んでいた 傲慢さは微塵もなかった 美しいとしか形容出来ない よくぞ生き残ってくれた、とも思った
様々な芸術家が賛美した人間像を目の当たりにし、疑いつつ眺めていたのだと思う 信じていいものか迷ったのも確かだ 疑いがよぎる度に新坂の言葉を思い出し、新坂が私を愛した理由を知っていった 新坂に出逢った頃の私は最悪だった 頭は丸坊主を隠すためにカツラをつけ、年がら年中Gパンにワイシャツと言う格好だ 色気などある訳がない
新坂が見ていたのは私の外観ではなかったのだとサライを通じて知った 内面から豊かに溢れる偽りのない生命の鼓動とでも言える温かさのようなものがサライから漂ってくる 芸術家が理想として描いた人間像が生きた人間として目の当たりに出現した、そんな気がする 多分、そのあたりから人間の内面を感じていた自分の感性をも信じるようになったのだと思う もう一つの確証は新坂の言葉でもある 世の中の大概の男たちは美人で若いと言うことに女の価値を見ていたのだと思う その浅はかな連中の中で新坂だけははっきり断言した[俺、顔には惚れないんだ]今ならこの言葉の意味が真実だと確信している 内面からの美を感じる才能を持った人間と上っ面しか見れない人間がいるのは確かなのだ 私が職場で接している人間の殆どが上っ面しか見てはいない そこしか見えていない彼らにとって内面などはどうでもいいことなんだ もし、彼らが人間の中には心を読む人がいるのだと知ったなら、多少とも自分の疚しい行為を恥じるだろう しかし、多勢に無勢は辛い 負けるなら
神に私の命を奪ってほしいとしか祈れない 私は偽りに満ちた世界に帰る気はない その決意を新たに固めてくれたのがフィギュアのペアの高橋成美とマービ、トランでもあった 心と言う存在の確信を得るためにあらゆる書物を読んだ だが、書物より確かなものは実物に触れることだとも思う
子供が生まれた時だった [私から変わろう]そう思った ゴミ問題に関しては今でこそ当たり前になり、少しずつ人々が気をつけるようになった 全ての考えは意識的ではなかった 漠然とした未来への不安のようなものでしかない 私が子供にしてあげられることは地球を守るために何ができるか、だったのだと思う なかなか変わらない群集の中で表面上は同意しながら無意識は異議を唱えていたのかも知れない
長距離ランナーのコリンの復讐は群集の期待を裏切ることだった それは偽善に満ちた社会への孤独な復讐劇 悲しいかな、私はコリンのような人間がたまらなく好きなんだと思う 破滅すると分かっていて敢えて歩くコリン 因みに破滅と破綻のどちらかを選べと言われたら私は破滅を選ぶ 群集に迎合するだけの人間はいずれ内部分裂を起こし破綻するしかないのは火を見るより明らかな事実だからだ 集団自殺は好きじゃない 人間の本能には自己保存が組み込まれているのは誰でも知ってると私は思う 人間と動物の自己保存との違いは何かを考える 動物は肉体そのものの遺伝子を残すことなのだが、人間は精神、魂、心など目には見えない情報を伝達したいと願っている しかし、現代はこれらの人間だけに許された特質をことごとく失いかけているのではないだろうか ここで私は手塚治虫の火の鳥に出てくる様々な人間像を思い浮かべる 手塚治虫が描く人間像は群集から外れ独自の道を喘ぎながら模索する そこには人類を救おうなどと言う意識はないものと私には思われる た
だ、特別な人間だけが人類の過ちを許せず自らを正しつつ歩いているだけに過ぎない 彼らにとっては幸福以上の価値がそこにはある 手塚治虫に限らず様々な人々が人生に問いかけていた問題は未だ解決の糸口は見つかってはいない 何故なら彼らは目先の幸福に躍起になり真に命を満たすものが何であるかを知らないのだから仕方ない 目に見えない意識が社会を作り人間を育んでいるのだと気付いたなら、自己意識の改革こそが優先されるべき事柄であるのだと知るだろう ソクラテスの言葉で言うところの[汝自身を知れ]に尽きる 社会の変革は個人レベルからしか起こり得ない
アランやラッセルの説く幸福論に異議はない 最もだ、と頷く
だが私は人から同情されるのが嫌いで幸せなふりをしてきた自分を悔やんでもいる もし、私が自分の心を正直に見つめていたなら私は違う人生を歩いたであろう 新坂と…幸福など求めはしなかったのだと思う ただ愛する人が私の傍らにいる、そのことだけが私には意味があるのだと思える アランやラッセルの言う幸福論は気持ちの持ちようでどうとでもなる問題に関してでしかない 自分があっての話 私は私一人では生きれないように生まれついたのかも知れない 札幌で新坂に会った頃のことを思い出す 極自然に私たちは寄り添うように歩いていた、としか言えない 見えない何かが互いを惹きつけ合う要素が何であるかは分からない
札幌のアパートで新坂に初めて会った日のことが微かに記憶に残っている 私はさして意識もしていなかったのだと思う 新坂がどんな気持ちで私を見ていたのか知らないうちに私は新坂と歩き出していた 意識することもなく 恐らくあの時点では新坂の一方的な好意に過ぎなかったのかも知れない 大切な人…と私が意識したのはサライに会ってからに思う 私にもし魂の片割れがいるなら同じ魂を持った人間なのだとだけは感じる 新坂と別れた時私は何も気付かなかった 魂の片割れとも言える存在を失うことが生きてる意味さえ奪うのだと ある時点まではアランやラッセルの幸福論に賛成もする その通りだとも ただ、そこから外れた人種がいるのも確かなのだ 幸福ではなく命への問いかけなんだと思う 神は私に苦しくとも生きよ…常にそう言い続けたように思う その度に私は疑問を抱いたのだろう 今なら私は断言できる 新坂、あなたに会うためだった、と サライ、あなたの笑顔のためだったと 二人の異なる人間に宿る魂は姿は違っても同じ
ものだと私の細胞が語る 私の中に宿る魂は私が死のうと再び、いや、幾度となく生まれくる 私は魂の衣装に過ぎない


忍者ブログ [PR]
カレンダー
08 2024/09 10
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
[05/17 backlink service]
[02/04 オトナの即愛倶楽部]
最新記事
(04/22)
(04/18)
(04/15)
(04/14)
(04/14)
最新トラックバック
プロフィール
HN:
No Name Ninja
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
最古記事
(06/24)
(06/25)
(06/26)
(06/26)
(06/27)
アクセス解析