携帯から書く日々ブログ
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客商売が私には向いていたのかも知れない 少なくとも自分の中にある闇を覗くことも向き合うことも忘れていられた 船のデッキから夜の海を眺めていると吸い込まれそうになる 自分の意志とは無関係に闇が私を引き寄せる サライに会った時も私は不思議な生物に遭遇したように思った 懐かしいような空気がサライの周りに漂っていた 通りかがりにカウンターの前に立っていたサライの横顔が印象に残った まだ、会話もしてなかった頃のことだ 気になり、コーヒーの売店の子にサライの特徴を話しそれとなく探りをいれた どんな人なのか気になっていた 実際サライと話してみるとどれが本当のサライなのか分からなくなる 少年のようなサライもいれば、場所をわきまえた振る舞いを見事にこなすサライもいる
まるで底の見えない夜の海を覗いているような不安を覚えながら吸い込まれていく 家庭運がない、と言われ続けたことが何となく分かる気がする 何かに逆らうように安定した生活を欲したのかも知れないが、かえってそれが私を迷わせもした 谷村志保の[海猫]の冒頭に[私は目覚める前に誰かを愛したかった]と言う言葉が私の心を掴んだ サライと会って私は何かに目覚めつつあった 遠い過去に葬ったはずの記憶が次第に目覚めていく いいか、悪いか、そんな問題ではなく、私はその中でしか生きれない魚なのだと思った 性としかいいようのない悲しみが再び目覚めた それでも空虚な世界であがいていた自分よりはましだと思う 少なくとも自分を縛る何かがここにはある 女は子供を身ごもると強くなる、と言う それに似た感覚なのだろう 我慢ではなく忍耐強くなる 空洞だった子宮に命が宿り脈打つ… さしずめ私は高齢出産にあたるのだろう 今頃になって、と過ぎ去った時を恨めしく思うが 子供同様、愛もまた神様からの授かりものだとも思う サライを思う時陣痛に似た痛みを覚える 肉体の子宮と精神の子宮 今、自分が幸せか、と問われたら、否、と答えるだろう だが、空虚よりは生きてる実感があるのは確かなのだ 不毛の大地に生まれた私が恐れていたのは苦しみや悲しみでは無く、空虚だったのだと思う ふっふつと闇から痛みを伴い鼓動する痛みにサライを思う PR
愛の妖精 中学に上がって私が読んだ最初の小説がいつまでも記憶に残っている。何かの縁があってのことだと思う 人は自分の中にないものには関心がいかないらしい 愛と言っても恋愛だけではなく、マザー、テレサのような人も愛の人なんだろう 彼女は多くの人を愛してきた イエス、キリストの姿に見えたそうな 姿が見えなくても愛する人の面影を宿した人に引き寄せられる そう言う意味でなら、新坂は本当に私を愛していたのかも知れない 別れた後に亀沢は[まんがに似た人と付き合ってる]と私に教えてくれた 私の中の愛の妖精だか神様だかは知らないが、無意識の中で育まれた存在がいたのだとだけは分かる 神様と私は名前を付けたんだが、愛と名付けても良かったんだろう 不思議な力を持った不思議な現象に付随する摩訶不思議なパワー
不思議なことに他の誰からも感じたことがなかったのにサライからは感じた サライもお馬鹿さんの類だから[愛]を信じていたのだろう 奴は男だから恥ずかしくて言わないだけで 私に会う前から[愛]の存在を秘めていた節がある 信じる者だけが手に入れる でもね、巷の連中は信じてもいないのに求めるんだよ それ、可笑しくねぇか 幻をどれだけ信じれるかで現実になるか嘘になるか、だと思う 信じれるものがなくなった世の中だから余計にそう思う 信じることには常に自己犠牲が付いてくる 払いたくないから安価なものですましたいんだろうなぁ 信念って言うくらいだから
鍵穴にいくら差し込んでも鍵が開かない いったい、どうなってんだ 次第にイライラしてくる こんな時は周りを見る余裕などないんだろうなぁ やたらむきになって鍵穴にガチャガチャと突っ込む 開く訳がない よく、見たら私の自転車と同じのが横にもある 古びた感じまで似ている もしかして…横の自転車に鍵を差し込んだらすんなり開いたではないか 早よ、気づけよな…こんな間違いは人生の中で何度か味わっている
間違いで最も後悔したのが、結婚だと思う もっと冷静に自分が求めているものが何であるかを知るべきだった 寂しいのは落ち着く場所がないからなんだ…そんな風に考えていた どんな時に自分の心が穏やかになったのか…自身に問いかけることもなく、落ち着く場所=家庭という方式に私は縛られていた [幸せじゃない…]そう感じた時、もっと周りを見渡してみるべきだった 自分に似合う生き方が見えていたのかも知れない 私の結婚はこの自転車に似ている 鍵と鍵穴が違うのに開く訳がない、という発想には及ばす、やっきになり体当たりしながら、ただ疲労だけが残った
20代の頃、神田川と言う唄が流行っていた その唄に因んで私は恋をした 唄の文句そのままの恋 だから、この恋を語る時私は神田川を歌う それでおしまい その次は週刊誌に書かれている恋をした[男に好かれる女]を演じながら 2ヶ月演じて別れた 誰かを自然に好きになる いつの間にか恋をしているかどうかは知らないが 一緒にいることが楽しい そう思えるような関係がいい 恋と言う言葉で飾ってしまうのは嫌い 大袈裟な言葉で飾らないのがいい サライに会うまで忘れていた 誰かを探していたのだということを 旅行ではなく、さすらう、が私にはピッタリくる さすらっていた頃は分からなかった 新坂に会った時も私の心は虚ろだったのだと思う 何度も黙って新坂の前から姿を消した 何となくどこかへ行きたくなる 行きたい場所があるわけでもなく 敢えていうなら[落ち着ける場所]だったのかも知れない 本当の自分でいられる場所 それが新坂の側だったのだと気づい
た 不思議な気がする サライと会ったのは偶然に過ぎないのだが、サライの側にいる私は新坂の側にいた私なんだと思う 本質的なものは変わらないのだとも思った コンプレックスだった顔も昔の写真で見ると気にするほどの酷さではない、と思う ただ、単に内面的に自分に自信が無くて、言葉に現せないもどかしさを顔のせいにしていただけじゃないだろうか お世辞にも美人とは言い難いが、悪い顔ではなかったのは確かだ 写真の私はどれを見ても笑っている 笑ってってる、というより微笑んでいるの方が当たってる カメラに向かってポーズを取るのが嫌いだったから、たいていの写真は誰かがコッソリ撮ってくれたものが多い あの頃の私の心とは裏腹に写真には私の屈託のない笑顔がある 一人の世界でいつも私は夢の中を生きていたみたいだ 新坂や他の男たちもきっとそんな私が好きだったんだと思う
私は初めっから人生に大袈裟なものは望んではいなかった だから、札幌で新坂と会った時も野良猫のように新坂と過ごせた それが私にとっての人間関係の理想だったのかも知れない 何かに縛られるのが嫌で自由な人を探していた だからと言ってだらしない人は嫌いだった、にも関わらず、一番嫌いなタイプを選んだ理由を考えると、自由とだらしないは似てるんだ 自由に生きるって凄い覚悟がいるような気がする 覚悟のない人はだらしないだけだ 現実を淡々と生きて楽しめる人 執着しないのがいい どこかでいつも死を意識しているのだと思う
サライと会った最初の頃、私が[長生きには興味ないの]投げ捨てるように言った言葉が時折頭をかすめる サライの返事も即答だった 常日頃の生き様みたいなものは自然に出てくる 短い人生だもの 楽しんで生きたい それが私の本心だった でも嫌いな人と暮らしていたら楽しむどころじゃない、とも思った 新坂もそうだが、私は独り言のように言葉を発する 誰に言うでもなく まるで虚空に泡を吐き出すようにボソッと それを上手くキャッチしてくれる人が新坂であり、サライなんだと思う サライと私がボソッと呟いた言葉が空中で一つの世界になる サライに会った最初の頃から私は感じていた[サライと私なら体を合わせなくてもセックスできるね]と 互いが放つエネルギーが空中で一つになる そんな時に感じる世界が私は好きだったんだと思う 新坂はそんな私の癖を知っていたからベタベタしなかったんだろう 心の中から泡のように出てくる柔らかいものが空中で誰かさんの心と合体する 多分、孤独な人だけが行き場の ない思いを泡のように吐き出してるんだと思う 別の表現をするなら、孤独に凍えた心が熱を発しているのかも知れない 口に出せず身悶えしながら命を燃やし、自らを暖めようともがいてるみたいだ 誰でも寂しいんだと思う でも心が違う そう思う時がある 肉体を離れて空中でセックスできる相手はそんなにはいない 拷問にあっても自分らしさを失わない人だけが孤独な世界の住人になれるのかも そんな気がする 新坂も石川さんもサライも似たような性格だったから この現実に私も生きている だけど、もう一つの世界が私の本当の生だとも思ってる 孤独な私だけの生 そんな世界を持った二人が出会い現実を支え合ってる |
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