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仕事場で全く仕事に関係のない事で因縁を付けられ、口論になり収支の付かない状況に突入した。
こうなったら話合いになんかならない。ほっといて次に行くしかないのだが、彼女の口から[あんたなんか大嫌い!]
これを発した女性は60を越えたいいオバサンなんだ。
ガキかおめぇは!
[嫌いで結構です]
しかし終わらない。次は[大々嫌い!]ときたもんだ。正直言って内心面白かったのだが、彼女は真剣そのもの。
昔の流行りに、小指を立てて[私はこれで会社をクビになりました]ってのがあるんだが、私はこの喧嘩が原因で仕事を辞めましたなんだね。私にとってはこう言うのは日常茶飯事になっていて、今更珍しくもない。
穏便を好む日本人はとかく、感情に脆いように思う。
必殺仕事人のセリフで[裏と表の使い分けはこちとらの方が上手なんだよ]
そうなんだよね。仕事場で感情を丸出しにするなんてのは仕事人として失格かも知れない。
私は裏と表はないのだが、本音と建て前がある。
以前にある人と喧嘩になった時、手のひらを返したと言われたんだが、手のひらでは無く本音ですと訂正を入れておいた。日本語の意味は微妙に違う所が面白い。
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[この世には、メランコリの会とでも言おうか、ある秘密結社がある。
生まれながらにして普通の人より高慢な精神を備え、激しい血をたぎらせ、より高みを目指し、突き進む者である。
胸は熱い息に灼かれ、普通の人よりもはるかに強く燃えるような情熱に突き動かされる]
これは多分ゴッホの本に書いてあったのではなかろうか。
私は書物の物語性を追う気はないので、いつでも気にいった箇所だけを抜粋し残している。その言葉の意味がしっくり来ないのだが、何となく気になると言うような言葉だけを抜粋し、そこから広がる私だけの世界を楽しんでいる。
一人遊びみたいなものだろう。
時を超えて語りかけるメッセージとして単純ではあるが、子供が産まれた時私は生きていないかも知れないと言う不安を抱いた。未来は闇の中にあると私は常日頃思っている。
その中にあって言葉は闇を行く人へのほのかな愛と言うランプのようなものなのだろう。
言葉は愛する者へ、今後も生きて行かなくてはならない者たちへの贈り物に思える。
私は書物を手にする時、年代を見る。1500年代に書かれたメッセージが今なお色褪せること無く語りかける。
出来ることなら、書物からではなく、その人自身の傍らに跪き、眼を見つめ無言で飲み干したいのだが、それは叶わない。人間に与えられた時間には限りがある。限りある時間を使って、少しでも多くの人に届けたい思いがあればこそ、何千年の時空の壁をも高速で打ち破る威力になる。
私個人としてはマザーの遅々とした歩みの後から生まれくる言葉が好きなのだ。また、マザーのように行動の人でありたいと願っている。
私にはマザーほどの信仰心がないので、マザーが言われる言葉の意味をそれに近い場所において確かめるしかなかった。マザーが如何なる気持ちで貧しい人々に接していたかを、病院に勤めていた頃に感覚として感じる事が出来た。
私が接していた人はいわゆる世の中から排除されたような状態におかれた老人ホーム。
この時感じた事は弱っている人ほど過敏なのだと知った。
この人々には嘘は通用しないと思ったのは無心であるが故の願いが残されていたからだと思う。
現在は至る所に老人ホームがある。
私はこれを姥捨て山と言っている。
誰も訪ねて来ない老人がほとんどと言っても過言ではない。いつでも、誰でも自分が必要とされていない人間であることを感じるのは辛く孤独なものだと思う。今、元気な人も未来は分からない闇の中にあるのだと知っておくべきではないだろうか。
人間には過去から学び、未来を予測する知恵がある。時を超えて読み継がれる書物は人間が生きている限り変わらない普遍性を備えているから、今なお共感をもって読まれる。
最初に書いた人物像は人間は愛さずには生きれない生物であることを伝えたいのだと思う。たまに火だるまになりながら生きる愚かな存在がいるのだが、愛とは痛みを伴うからこそ輝いて見える。
電話口で、ぐちゃぐちゃと何かを噛み砕くような音がする。時々、会話が途切れ[聞いてるの?]と聞くと返事がくる。
姿が見えないのだが、伝わってくるものがある。
私は電話を切った。時間の無駄だ。
相手に姿が見えない時ほど姿勢には気をつけたい。
今の時代はあらゆる所に監視カメラが据えられている。
何時、何処で、誰が見ているか分かったもんじゃない。
普段の姿を何処で見られても構わないくらいの心構えがないといけないと思っている。
私は子供の頃にいつでも神様が私を見ているのだと言う意識があって、悪いことをしてはいけないのだと思っていた。
今の時代なら、それが監視カメラなのかも知れないと思っている。
いつでも誰かに見られている。
昔、店を経営していた頃、初めて来られたお客さんが[あなた、…の近くに住んでいるでしょう]と言われ[何で知ってるの?]と疑問に思ったのだが、何のこっちやない。
その人は私の住まいの近くにあるスーパーの店長で監視カメラで私を見て記憶に残っていただけだ。その人に私は宇宙人のような印象を与えたらしい。
店を一歩でると私は何者でもない私自身に帰る。帰った私が宇宙人とは面白い。今では悪い気はしない。UFOに乗って地球に出稼ぎに来る宇宙人とは面白いではないか。
宇宙人であろうが、私は地球のマナーは守っている。
出来たら、地球人とも礼儀を持って接したいと心がけているんだが。私が地球に上陸して最初に覚えたのは笑顔で挨拶をすることだった。
私にとっては、私自身が持っている信念を捨てないことが愛する資格に思う。
幼い日に[いつも笑顔でいなさい]と囁いた神の声の言葉の意味は過酷なものでもあった。
暗い顔を人には見せないと言う強い意志が無くては出来ない。単純過ぎて複雑。私の顔は絶えず引きつっていた。
私が何の生活の心配もいらないお嬢様のような暮らしの中で信念を貫くなら、ただのお遊びにしかならない。
信念とは自分の命をかけても叶えたいと思うからこそ価値があるものではないだろうか。絞首刑台の前で命乞いなどせぬことだけを願う。
神様は私にこの命を自由に使いなさいと言われ、くださったように思う。
命に代えても…と思えるものに出会った時、私の信念は形になるのだろう。
燃えるような情熱を持ち生まれくる人がいる。
未だ形とは成り得ていないのだが、人間と言う衣装さえ燃え尽くすような情熱に突き動かされる人間がいるのは確かなのだ。
私は冷ややかな目で世の中を眺める。まるで死に場所を探すように、命を捧げて惜しくはないと思えるものを探す。
こんなことを娘に話すとそう言う職場に行けばいい、と言われるのだが、職場の問題ではない。
私が店を経営していた頃、何人かの立派な肩書きを持った方がいたのだが、それと私が探している人間とは別だったのだと思う。
無意識に私はある人間を探していたのだろう。店をしながら虚ろな思いで[私が探している人間はここにはいないのかも]とボヤいたのが記憶に残っている。
娘は私がどのような人間を探しているのかはある程度理解しているらしい。彼女が進めてくれる本にはそう言う人物が出てくる。
私は言葉とは人間同士がコミュニケーションする為に編み出されたものだと思っている。言葉の解釈にしても個人差がある。私が長ったらしい文章が嫌いな理由に[一を聞いて10を知る]人が好きだからだ。一を聞いて、自由に発想し、10を知ったはいいが、そこじゃないけど、それもいいね。と言う到達点を持った人なんだと思う。
いわゆるアバウトな人間なんだろう。
一を聞いて、道を踏み外さずに歩いた結果[ちょっと違ったかな]
目的はあくまで人間らしく生きることであって場所ではない。歩く姿勢のようなものだと私は思っている。


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