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たまたま病院の待合室でテレビを見た 悩みがあるとその問題に対する何らかの情報が来る 何気なく開いた本や、テレビに偶然悩みに対する解答とまでは行かずともあ~世の中にはこんなこともあるんだ 私自身が興味があるから意識が向いてしまうのだとは思う 以前の私なら気にも止めなかった問題も自分の現実に実際に起きると意識してしまうもんなんだろう
サライに会った最初の頃は年下の男と恋愛感情になるなんて有り得ないと鼻で笑っていた 今でも多少は悩んではいるのだが、好きになると止まらないものだと半ば諦めに近い心境で成り行きを客観視している部分もある 常識外れの行動や経験は私にとって日常茶飯事ではあるがそれはあくまで他人とは関係のない個人的な事柄で、今回のようにモロに他人が関わって来ざるを得ない場合はやはり悩むな まっテレビでの作り話だから現実的ではないが、私にとっては現実問題だ 作った側にも(こんなこともあらあなぁ)と言う意識からなんだろう
男女の年齢差は今までなら男が年上の場合あまり問題ではなかったような習慣があり、今更物語にはなりそうにないほど定着しているが女が年上の場合まだまだ常識の域には達してはいない これには様々な問題が絡んでいるのだろう 例えば出産とか…他にも理由があるのだろうが男の場合年下の女と一緒になるのはさしたる障害にはならない 私自身も男は全員若い子を優先的に選んでいるようなロリコンイメージがあった 女が年下の男を(若いツバメ)として側に置くと言う類の話は昔からあった 私にはそんな趣味はないので問題外だ あまり常識には捕らわれない私ではあるが多少は悩むなぁ 私もサライも常識人ではないのは確かなんだが、人と人が惹かれ合う要因とは個人の価値観にあるのだとは思う 時々、私は自分の気持ちを疑う スケベ親父のように若い肉体に対する欲望に過ぎないのではないかとか あるいは投げやりになっていた自分の体、肉体に対するいい加減な態度を改めるきっかけを神様は与えてくれたのだろうとか、他にもいろいろだ サライとのことは私も案外古臭
い意識に縛られてんなと実感させられはした 若い子から好意を持たれたのは過去にも何度か経験してはいるが、それは人間が持って生まれた甘えに近い感情に過ぎない 相手はそうは思っていないだろうが 相手を選ぶ時も人間は無意識に用途分けをしている ただ、そこに優先順位があるだけ かっての私が家庭と言うものを優先順位の第一として考えていたように 現実的な欠乏感から憧れとして求めるものもあるのだが、私個人の本来的な自己からくる要求は自己実現に関与しているように思われる
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咳がなかなか止まらず病院に行くと[肺炎]だとさ 今日で9日目になる 熱が出たり引いたりを繰り返し、咳が止まらない レントゲンを取るなんて久しぶり 病気になるのも久しぶり 行きつけの病院で仲良しの看護婦さんと話していると、つい笑い過ぎて余計咳き込むのだが笑ってられるっていいなぁ 私最近めちゃめちゃ明るくなったように思う 前から脳天気な性格ではあったんだが、今の明るさとは違う 何か何時死んでもいいみたいな気持ちかな パワー全開で生きてるって感じ
昨日、仕事場で別に面白いことした訳でもないのに若いアベックの男の子が[面白すぎ~] 何が面白いのかはさっぱり分からんのだが、存在そのものが面白いってあると思う ふっと新坂を思い出してしまった 新坂はいつも[まんがは面白いね]と言っていた時の顔は本当に楽しそうだった あれが私の自然体だったのだと思う サライは私の笑顔が好きと言ってくれる 私もサライの笑顔が好き 新坂と同じなんだ 私は新坂の静かな微笑みが好きだった 怒った顔は一度も見たことなかった 電話で一度だけ怒った声は聞いたかな 優しい怒りかたがある 言葉では表現出来ないのだけど、思い出すと切なくなるような怒りかた 他の人はどうか知らないけど深い愛は静かな地底を流れる小川みたいに感じる 仲良しの看護婦さんとゲラゲラ笑ってる私も好きだけど、無言には勝てない タフな私も肺炎には勝てない
毎日の生活が楽しいからこそ頑張れるのだし、楽しく生きたいと思うから頑張るのだとも思う
大切に1日を生きるのも現実の中に守りたいものが確かにあるからなんだなぁ 生活環境を変えてから日々への思いが自然と変わってきたのは確かだ 投げやりになっていたささやかな物事を愛おしむようになったかな
夢を見るのもいいが、それだって今日と言う日からしか歩いて行けないんだよね 取りあえず夢は心の中に静かにしまっておいてもいいんじゃない 本当に心からの願いならきっと何時の日か夢は現実になってる気がする
私は夢などもう持ってはいないと思っていたのだが、心はしぶといのかも知れない
諦め切れない心がある 多分心はいつまでも子供のままなんだろうな 魂は年を取るそうだが心は子供のままにあるのかも知れない これは私自身やサライを見ていると感じることなんだ 仕事に対するサライの姿勢は完全な大人なのに私に対するサライの態度は子供のような無邪気さへと変わる 私も同じだ
単純な日々の中を子供のような心で弾みながら未来へと歩いている
周期的に得体の知れない不安に襲われる 大抵何らかの変化の兆しなんだが、恐怖の最中ではもっぱら不安との葛藤に船酔いでもしたように気分が悪くなる
新しい環境に慣れて来た頃に来るか、マンネリした日々にやって来るかだな 楽天的に考えると無意識からの仕掛けかもとか思う訳だ[ほな、次行こうか!]なのかな… あまり深く考えないように心がけてはいる こんな時はゆったりなんて不可能だっちゅうの
手当たり次第に掃除やらで体だけ動かしてるのがいいみたい 下手に頭なぞ使おうものならドツボにはまるのがいいとこだ 不安とにらめっこしているのも不愉快極まりない
まるで自分の心か精神力かどっちかは知らないのだが、試されてる気がしないでもない あ~そう言えばコンビニに手塚先生の火の鳥とブッダの文庫本があった 世の中の需要と供給の関係かしら 後、コンビニには珍しくニーチェの本もあったな 世の中の流れを見ていたら、確かな価値や新しい価値観みたいなもの、若しくは人間本来の生き方の模索が始まっているのかも知れない
ナンセンスも息抜きには必要なんだが、生きてる意味そのものが希薄だってのは耐えられないものかも 極端になると自傷行為で生きてる実感を得ようとするって話もあるくらいだから 私はその必要はないな 常に意識が陥没を繰り返しているんで退屈にはならないが不快だ
騒音や人の心のざわめきのない環境にいるのはまるで仙人でもなった気分 こんな静かな時を過ごすのは久しぶりに思える やっぱり人も寡黙な人が好きなんだろう 寡黙でも無口とは違う 心が静かな人とでも言えば良いのかしらね ざわついた心の傍らは落ち着かなくてイライラしているのが分かる 人の心の中から聞こえる雑音に耳を閉ざすように音楽を聞いている部分もあったのかも知れない 無言なんだけど心の中が雑音でいっぱいになった心は気が休まらない 本当の静寂は雑念のない心から来るものに思える 昔の私はしゃかしゃかと動き回ってはいたが、心は至って静かだったように思う 寂しいと感じていたのは心の中には誰も住んで居なくて私一人しか居なかったからなんだろう あの頃、新坂と一緒だったけど私にはまだ人を(思う心)が芽生えてはいなかった 空虚な心の中に誰かを(思う心)があれば静寂は野原みたいな広々とした世界に変わる
引っ越してから何かつき物が落ちたように感じている 今まで住んでいた世界が次第に遠退いて行くような感覚 その感覚の中でサライも一緒に遠退いて行くのかしら…そう思うと寂しいのだが、サライだけは他の人とは違うのも分かる
サライと私は同じ静寂の中に佇んでいるような気がする 消すに消せない光景がいつまでも一陣の風のように吹き抜けて行く 静寂の中で二人して無言で見つめ合っていた瞬間が揺るがぬ岩のようだ
独りでいても平気になったのは今まで感じたことのない確かなものに触れたからなのだと思う


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