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そう言う類の技巧が私は嫌いなんだと思う なんだか薄っぺらい気がして 多分ね、テクニックで落としたとしても人間の本質にはかなわない気がする だからかな、私は男に惚れる女じゃないとか、[あの人は女に惚れる人じゃない 才能に惚れる]なんてセリフを何回も聞かされてきた でも才能って何だろう 私が惚れる才能とはなんぞいな? 肩書きにも興味ないし、金はあるに越したことはないのだが、無くても生きていけるならどうでもいいや!
そうだね…好きな人が側にいてくれたらあんまり望まないのかも 楽しく生きていたいのだが、これは人間関係が大いに関連してるんだ
側にいるだけで楽しい人もいりゃその逆もいる 具体的にどう言う人が嫌なのかを言葉で説明は出来ないのだが、私が大嫌いな人の代表が元旦那だろうな 私は相当の物好きだ 誰からも愛されない人を選んだ 良く言えば博愛主義なんだが、これは私の生い立ちにも関連があるように思う 誰からも愛されなかった幼少期が影響している 誰からも愛されなくなると人は寂しいもんだ 老人ホームで仕事していたのもそんな心理が根底にはあった (心から愛される喜び)のようなものを感じて欲しかったのだと思う 今では私が愛していたのか私を愛してくれていたのかの境目が曖昧になっている 心ある人なら感じてくれるんじゃないの?偽りか真実かを テクニックではないんだ [思いやり]かも知れないのだが、人間として当たり前の行為なんだと思う この辺りの心理はマザーテレサさんの生き方が手本になっているような気がする サライに逢わなかったらマザーのような生き方を選んだかも知れない サライを愛する気持ちは全く別の次元の感覚であり、マザーの
愛とは相容れないのだが、責任みたいにも感じる ある一種の任務でもあるのかも知れない マザーの愛は無償の行為だが、私がサライに求めるのは無償ではないのだと思う (サライから愛されたい…)と言う下心があったりする 随分昔、私はある人と付き逢っていた その時聞こえてきた声がある (与えるのはいいが受け取ってはならない!)と言う類の言葉だった その人とはいつの間にか逢わなくなった 私の中に何らかの存在がいるなら、その存在が私の魂の片割れを定めているとしか思えない 二つの世界に私は跨っているようにも思える 一つはマザーのような視点であり、もう一つは全く個人的な私だけの愛に思える 与えるだけの愛と愛し合いたい存在としてのサライがいる 多分、サライと私が生み出しているエネルギーがある 私は神様じゃないから、ただ与えるだけではいつしか枯渇してしまうだろう 心から愛する人に逢った時、人は技巧を使ったりはしないのだと思うよ そう言う子供騙しの技巧は相手を侮辱しているように思えるから嫌いなんだ
私が愛した人はテクニックなんかに騙されるような馬鹿ではないと言いたいだけ 元旦那は私に騙された!と言っていたのだが、騙されるような人に私は理解は出来ないだろう 人を騙すと言う意味ではサライと私は同類なんだと思う 生きることを楽しんで欲しいと願う心も似ている 一番素敵な生き方があるなら、穏やかで生き生きとしてるってことじゃないかな 魂から咲く花のような笑顔があるんだと知った気がする テクニックや技巧ではない心からの思いは言葉では語らない テクニックで落ちるような人を愛したりはしない 面倒くさいのもあるんだと思うのだが いつも人を欺いているような気分だからスッピンでいて疲れない人となるとサライしかいない サライは側にいてくれるだけでいい存在 海と魚、サライといる時私は魚になる 何故かしら、不思議な感覚 サライに逢う前、私は神様の子供でしか無かった 多分、愛するって神様のように信頼できると言うことであり、心を許し、子供のようになれるんじゃないかな 私には子供の時期が無かった サラ
イは私が失った子供時代を取り戻してくれている 時空を超えてとしか表現出来ない
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サライに逢うまであなたは絶対者でした 私はあなたを表現するだけの存在でしか無かった 見えないあなたの愛が人々を、私を生かしているのだと信じて今日まで生きてきたようなものです あなたは私に多くの苦難と喜びを与える試練の存在でした サライに逢ってから次第にあなたは私の心から薄れて遠のいていった 神よ、私はあなたに導かれ人間への道を歩いてきたように思われます あなたの戒めが無かったら悩みも葛藤も無かった 今、あなたは無言です あなたがいた内奥にはサライがいます サライに初めて逢った時の衝撃は不思議でした サライから打ち寄せる温かさのようなものはあなたには無かった 多分、人間だけが人を想う心を宿しているのでしょう あなたが私に与えた才能があるのなら(愛する心)に思われます 誰かを愛さずには生きれないように私を作られたのではないのですか 自分のためには生きれないように私を作られたのではないのですか サライを愛する心は私自身を愛するに等しいのです 人を想う心は温かいのですね
そんな感覚をサライから感じています サライが温かく感じれるのはサライが私を心に抱きしめているからなのです 小さな人間の愛はあなたの愛さえ凌いでいくように思われます 最初にサライに逢った時に無意識からの私が(この子なら最高だ)そう呟く声がしました 恐らく誰しもが愛されたいと願っているのです その思いに応えてきました 愛されたいと願う人々の心に けれど私はもうサライ以外の人の心には応えることは出来ません
何故なのか自分でも分かりません 世界中の人が私には縁遠く思われるのにサライだけは肉親に思える ただそれだけです 私のただ一つの願いは(愛する人の傍らにいたい) 神よ、あなたと共に歩いてきた道があります 愛する人へと続く道の至る所で私は野の花を摘みながら歩いた
新坂、今日雪が降っていた 札幌の街が懐かしいのは新坂がいたからなんだね サライに会うまで新坂のことは忘れていた 新坂に逢わなかったらサライの良さも分からず気にも止めなかったと思う 何故、忘れていたのだろう 十把一絡げで過去の人にしていた サライは新坂と同じように[お帰りなさい…]と迎えてくれる 普通とはちょっと変わった形で気持ちを現してくれる 多分、[お帰りなさい]そう言ってくれる人を探していたんだ 愛する人とならこの世界で生きていくのは苦痛ではない。サライにも同じ気持ちを感じている 新坂はただ黙って待っていてくれた 帰ると黙って迎え入れてくれた 極自然に…新坂、私は新坂とのセックスを記憶していない理由も分かってきた
今日はサライと初めてキスをした日なんだ サライと会って一年が過ぎた 今ではサライはいて当たり前になっているのだけど、この一年で沢山の絆を作り上げてきたからなんだ 新坂、絆を作ろうと思っても片方だけが頑張ったって出来ないんだ あの頃の私にはそう言うものを築くだけの意識が希薄だったように思う ただ側にいたいと言う思いと不安でいっぱいだった サライを愛しながら、新坂をこんな風に愛せなかったことが悔やまれる 馴染まぬ水があるように極自然に馴染む水がある 海と魚の関係でもあるのだと思う 新坂とのセックスを記憶していないのは違和感が無かったからなんだと気付いた 他人じゃ無く最も身近な人、それが新坂 無くては生きて行けないものが人にはある 魚は海でしか生きれない それと同じように愛がないと生きれない悲しい生物がいる ただ、生きるだけの虚しさには耐えられないんだと思う そうかと言って誰でもいい訳じゃない 新坂は私と別れた後、私に似たような人と付き合っていたと聞いた 多分、サライに似た
人はいない いたとしてもサライと私が築いてきた一年がない 新坂、相手に届かない愛は悲しいね 応えてくれない愛は寂しいね お互いが愛していることを自覚しなきゃ駄目なんじゃないかな 私とサライは疑いながら一年を過ごした 何度、止めたいと思ったか知れない 苦しくて切なくて狂いそうにもなった 逢いたくてたまらなくなり夜中に駆け出したこともある そう言う思いを沢山重ねてきたから感じるものがあるのだと思う 安易じゃなかった 今では楽しいラブロマンスはみな嘘だと思うようになった 苦しい…のだけど口が裂けても言えない苦しみがある
魚は海を意識していないだろうが、陸に放り出されたら苦しいんじゃないかな 空気もそうだね 大切なものに気付かなかったら失う 私にはあの時間が大切なものには思えなかった。失いたくないから苦しんで、自分の心を確かめていたんだと思う 今日は3月17日、雪が降っている。京都で3月に降る雪は珍しい 去年の今日、サライと嵐山に行った 心から、いや、魂の奥底から求め止まぬ愛は臆病で傷つきやすい 魂は片割れを見つけるまで幸せにはなれない そう言う感覚も何となくわかる気がする 私に家庭運が無かったのも多分、自分の魂の片割れを追い求めた結果に過ぎない 魂は居場所を定め鉄の扉を閉める そんな言葉の意味も分かる 頑なに閉ざされていた扉が極自然に開かれていた 新坂、音もたてず降る雪のように心や魂は無言で行き交う 暗い夜に降る雪のように 気がついたら辺り一面雪景色になっている そんな感じに心の中に積もっていく 自分から捨てたのに本心は違うんだ 素直になれなかった心 [行かないで!]本当は
そう言いたかったのに出来なかった 愛すること事態に恐れていた臆病な私がいる
坂上二郎さんが亡くなられた 今見ても面白い 好きなことだから一生懸命になれるんだよね 最近の芸能界にはいないのだと思う 笑わせようと考えるより自分が楽しめなくては見てる側には伝わらない 坂上次郎さんは人を笑わせるのが好きだったんだと思う 人を思う…そんな温かい人は芸能界にはいない 思いは自然に溢れてくるもんなんだ そこから発想してるから温かく感じれる 薄っぺらなゲラゲラ笑いを提供される度に情けなくなる 人間関係も同じなんじゃない 考えるんじゃなくて(思い)は言葉を超えて溢れてくる温かいもんなんだ 心が無くなった時代だから頭でっかちになっているように思う 好きになることなんだ 人でも仕事でも好きと言う思いから様々な人間らしい工夫が自ずと生まれてくる
コンプレックスの塊だった私に[俺、顔には惚れないんだ]ボソッと一言言われた時、正直言ってドキッとした 口に出して言ってないのになんで分かったんかぁと気持ちがバレたようでただ恥ずかしく思った コンプレックスはなかなか人には言えないもんだが、新坂はさり気なくサラリと言ってくれたのが懐かしい 私がもうチョイ素直だったら良かったね [まんがは意固地だなぁ]そうなんだよね しょうもないことに一人で拘って殻に閉じこもっていた 今なら新坂の言葉の意味も優しさもひっくるめて分かる 何て表現したらいいのか分からないのだけど…何にも身に付けていないスッポンポンの私とでも言っとこうか 肩書き無し、学歴無し、おまけにコンプレックスの塊…なんだけど純粋…これはサライを見ていて気付いたこと 心は見えないのだけど感じるものだと 多分、新坂はスッポンポンの私が好きだったんじゃないかなぁ 装飾品を全く身に付けていない人はいない でもね、サライを見ていて分かった 装飾品を身に付けていない人間が一番単純で独創的なんだ
って これは世の中の流れとも関係があるのだと思う こんな世の中だからこそサライのような裸一貫で生きているのが珍しいのかも知れない だけどサライはそう言うものにしがみつかなくても生き抜くだけの逞しさみたいなものがある サライにとって働く意味は[欲しい物があるから]でしかない 多分、差別とか競争とかには無縁なんだと思う そんな普通の男はいないから、どんな風にサライを表現すれば良いのか分からないんだけど…単純で純粋で複雑 ゴーギャンがタヒチの女性を描いたのは私がサライに感じている感覚に近いのだと思う タヒチならきっと同じような人がいるかも知れないのだが、今の日本でサライのような人間が生き残っている確率は低い 環境の影響を受けないのはゴキブリ並みの逞しさとしか形容出来ない 純粋であること自体が逞しい生命力を備えている 以前にもサライを付随物が全くないと表現したのだが、要するに汚れていない
新坂が[まんがは面白いね]そう言って満面の笑みを浮かべていた意味が今なら分かる サライを美しいと感じ愛おしいと思う私がいる
私には私が見えていない サライにもサライは見えていないのだと思う
最近、思うんだ ただ精一杯生きて愛する人に出逢えたなら最高の人生なんだって 単純なんだけど一番難しいのだとも思う 質素で豊かな生き方があるなら、逞しい肉体と愛する人がいればOKかも
今日、ふっと新坂の言葉を思い出し、愛されるって大事だなと思っていた だから、ありがとうなんだ 新坂との時間が無かったら多分私は自分の良さにもサライにも気付かなかったと思う 私が意固地なまでに大切にしてきたものがあるとしたら、新坂が愛した私なんだ
さしずめサライは今の時代じゃ無くて、もっと昔に生まれていたなら羊飼いでもしていたんじゃないかな 私の中の無意識にはサライと新坂がいる 新坂もサライと似ているよね [俺は後の世に残るものを作りたいんだ]って言っていたのだけ覚えている 素朴なんだよね二人とも 変な欲はなくて純粋なんだと思う 切ない位愛してる私がいる


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