忘れられない人

思い出は数多くあるが、それらは風に舞う木の葉のように脳裏を過ぎていく。 顔も定かに覚えてはいないのに仕草だけは今でも鮮明だ。 同じ悲しみを味わったんだと胸のうちで感じていた。交わした言葉は本当に少ない。それで充分でもあった。言葉にせずとも聞こえる思いがある。あの会話が懐かしくなる。寂しいといっそう恋しくなる。言葉の届かない世界にいると無言で交わした思いが寄せては去っていく。あの時私に勇気があったならと悔やむ。罪人であろうが全てを知っているのは私だけだ。 自分にだけは真実を打ち明けられる。私が生きてきた証として。 認め許すのも私だけ。だが時折あなたならとも思う。愛する苦しみを味わったあなたならこの胸のうちを無言で解き放ってくれたのではと。

空虚

芥川が覗いていた空虚はこんな風だったんだろう。弟が見ていた海には風もなく静止したままだったに違いない。全てが廃墟に見える世界。 私は空虚な闇に向かい問いかけ続けた。色彩を無くした世界へと。 望みは？と聞くと、無言だ。今日まで私に希望や夢を与えてくれた闇も今は無言だ。 悩みではない。 空虚！ 言葉を無くした世界でただ問いかける。 まだおまえは生きていたいか。 この大地から私は幼い日に様々な夢や暖かな家族を思い描いた。現実には決して根を下ろすことのない夢を空虚に描いては消しを繰り返した。 本心から望む夢や愛だけは言葉にもなりはしなかった。それを知っているのはあなただけでいいと思っていた。 私は何かになろうとは一度も思わなかった。 幼い日のひたむきさで生きていたいと今なら願う。無心にただひたむきに。その果てにあなたに会えるような気がした。

幼い日の妄想

神様はいない。神様に等しい心根の優しい人間がいるだけだ。幼い日に私が心に描いた神様は人間のうちに宿る。言葉に出来ない苦しい胸のうちを分かってくださり無言の眼差しを与えてくれた人がいる。それで現実が変わった訳ではない。誰にも分かってもらえないのが何より辛い。そうかと言って同情されるのはもっと嫌だ。苦難の中で私は様々な妄想を抱いた。心が壊れないが為に。あの現実から遠ざかった今でもあの日の私の心情は世界の至る所に存在する。 生きていく事が辛ければ辛い程生きる意味を考える。この苦しみにも何らかの意味はあるのだと。そうでも考えなきゃ生き続ける事は出来ない。 想像する力が人間にはある。人の苦しみを感じる能力があったればこその発展ではなかったのか。経済は欲望の奴隷でしかない。

よその家

諦めなのか。よその家の楽しげな食卓を上がりがまちから無言で眺めていた。その家の家人は私が腹を空かせていると思ったんだろう。 食べると聞かれ首を振った。空腹より暖かな空気に飢えていたと今になると分かる。 父は、お前はどうして生きていくんだろうと他人ごとのように私に言った事がある。放任と言う自由。どこにも寄る辺のない自由。 夜の暗闇に見る月だけは私を見てくれている。そこに私は神を見ていた。この月と同じように私を見ている存在がいると。 幼い日の妄想もあながち間違いではない。生きる為の希望として紡いだ幻は今日までの私の心の糧。 神はいないが神に等しい魂を持った人間はいる。 それが私の結論だ。私が信じた神は、生きたいと願う私の心から生まれた存在に過ぎない。 人間は信じる事で不可能を可能に変える存在と言う意味では神に等しいのだろう。 全てが幻だったと知った今でも私は我が家と呼べる場所はここにしかないと言える。人間の原点は嘘を誠に変える力に他ならない。

愛人エッカマン

ゲーテとエッカマンの関係は愛人との関わりに似ている。詩人は現実に生きていながら全く離れた世界の住人でもある。エッカマンはゲーテの空虚な世界と感性を合わせ持つ精神の架け橋でもあった。ブラックホールから脱出出来るのは極僅かな人間だけかも知れない。新しい意識が誕生するのを手助けする人間との出会い。ソクラテスはこれを産婆術と語っている。意識改革。見慣れない世界の住人を恐れるのは極当たり前であるがエッカマンは恐らく好奇心の強い愛人だろう。手品師のように巧みに言葉を操り世界を繰り広げるゲーテを否定せず面白いと思える度量を持ち合わせていた。詩人とは大工のようなもの。彼らが使う道具は文字と言葉。その言葉は魂の深みまで土台がしっかりしていなくてはならない。自然から切り離された人間を支えるだけの寿命がなくては持ちこたえる事はできない。