携帯から書く日々ブログ
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子供の頃の私は好奇心の強い、勘の鋭い子供もでありました。学校に上がると学ぶ事が新鮮でした。しかし、それも束の間で終りました。約束の別れが来た。その日私は泣きませんでした。何故なら、本当はもっと早く別れるはずが、一年だけ延ばされていたのを忘れてはいませんでした。最初の死、でした。希望を無くした私は学ぶ意欲さえ失いました。今改めて学びたい。心から、感じます。学ぶ事の喜びは新しい自分との出会いでもあるのです。愛する人を失いはしたが、私自身を失った訳ではないのです。何が、私の感動の源かを思う時思い出すのは、新しい世界を見付けた時だった様に思います。
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私が暮らした故郷には森がある。森の中にある泉は今なお氷に覆われ、水底には七歳の私が眠っている。多分ずーと夢をみているのだろう。幸せだった頃の。寝顔を見る度に蘇るものがある。二度と目覚めないまま、森の泉で夢を見続ける。故郷はイマジネーションの世界を映す鏡でもある。私が悲しみを知らなかった頃描いた夢を見る。自然の感情から引き裂かれ、泉の中に身を投げた最初の感情。今の私の感情は自然のものではない。氷の上に築かれた幻。
体の中から溢れくるイメージが意識と出会う。形あるものとエネルギーなのか、蜃気楼の様に立ち上るものがある。この二つのイタチごっこを眺めているのは多分、心と言う鏡の様に思える。イメージが膨らむと古代の神話が蘇る。言葉は人間が作ったものではあるが、自在に組み合わせる事が出来る。言葉を越えたものを表現する事も。近すぎて見えなかったものも遠ざかると形が見えてくる。そんな感じかも知れない。私は本を読んでいる最中に、考え込む事がしばしばある。字面を追うのではなく、何を指しているのか方向を探す。その方向に輝くものがあれば、如何なる道であろうと構わないと思う。道はあっても希望がない道は意味がないのだから。希望があれば道は自ずと生まれるのかも知れない。生きていたいと言う単純な願いの前で道は何処にでもあった気がする。無我夢中で追い掛けたものが単純な事だった。生きていたい!歩き慣れて来ると余裕が出来、好奇心と野次馬根性が生まれた。何事にも順序はあるんだろう。貧しい国の子供達が最初に欲しいものは食べ物に決まっている。子供は命に正直だから。正しい命の在りかと希望を教えてくれるであろう。
町はみんなのものなんかじゃない。人間のものだ。みんなは動物や植物、その他様々なものを含んだ意味のみんなではない。人間は自然から盗むだけ盗んだ。化学も文明も元を辿ると自然が教えてくれたもの。人間が今使っているものは全て自然が与えた知恵に過ぎない。人間の師であり、素材提供者である自然は消えて行く。人間は一体誰に学び、誰に与えてもらうのだろう。導く者がいなくなった現代で、途方にくれているのは、案外人間なのかも知れない。帰る所を失い前に進むしかないのだが、失われたものが持っていたものが何だったのか、考えてみると、人間が帰るべき第二の未来なのか、大地が見えてくる気がする。人間の中にも自然は存在する。全てが失われた訳ではないのだから。どんなに遠く離れても人間も自然が生み出した存在に変わりない。ただ、忘れているだけ。
秋になると稲穂が黄金色に輝く。涼しい風が稲穂を揺るがすと天上から素足の女神が降り立つ。秋の稲穂はメルヘンの世界を思わせる。神話の世界に出て来る神を感じる時がある。心が見ている物は現実とはかけ離れているのだが、神話の方が心が見ている世界を説明するのにはピッタリしていたりする。日頃使われる事のない言葉が生き生きと語る時、世界は神秘に満ちている。私は生まれて初めてこの世界を見た時の事は覚えていない。が、何気無い時懐かしいものを自分の中に感じる。見慣れた世界が新鮮になる。秋は収穫の季節とも言われている。蒔いた種が芽を出し注がれた愛が実を結ぶ。収穫とは何も作物に限られている訳ではない。人間の生きた証しとしての祝福でもあるのでは。秋になると神話が今だに息付いてる気がする。
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