携帯から書く日々ブログ
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人と言う者は不思議です。愛したものを何かに例えようとします。ゲーテは自然の中に例えました。天文学者は星に、音楽を愛する者は風の音、海、雨、あらゆるものに愛するものを感じていたのでしょう。私は人間を愛し、それらを花や草木、時には空に瞬く星に例えました。愛は無限に拡がる知識の源なのです。誰でも愛するものの事を知りたいと思うものだと。片時も離れていたくないと思う心が全ての物事に及ぶ気がするのです。愛は原点です。そこからしか始まらないものがあると私は思うのです。
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まず、私の場合は食べ物でした。次は安心して暮らせる家族。それは小さな集団でも構わないのです。助け合える仲間です。次に、毎日が生きていると言う喜びの為の感動です。何も贅沢したい訳ではありません。私は三年前から、大好きなブーゲンビリァの花を育てています。何度も失敗を繰り返し、やっと咲かせる事が出来た時の感動を私は忘れる事がないのです。これは私だけの感動です。でも、感動は細やかな所にあるのだと教えられた気がしました。
出来たら、穏やかな人生が望ましいのではあるが、人生は何が起きるか解らないものでもあります。特に幼い力の弱い者にとってはなおの事。大人になっても苦難に見舞われる事はあるでしょう。苦難の最中にあって死は、慰めにもなるのです。何時か死ぬ、と解れば苦難さえ乗り越えて行く力になり得るのです。苦しみも生きているからこそ感じる事が出来ます。愛の反対は無関心です。何も感じれない事なのです。堪えられない苦しみも死の中では無関心になります。苦難や喜びが人間の人生に素晴らしい物語りとなり、生まれるのです。何も話す事のない人生程悲しいものはありません。
人間は憧れを希望に変える力を持つものです。ソクラテスが自身の無知を知った時、世界の真理を知りたくなった様に。貧しい者は食べ物への憧れを、眠る場所のない者は暖かなものにくるまりたいと願うのでしょう。どんなに小さな憧れであっても、人間が生きて行く希望なのです。細やかな希望が叶った時程感動は大きいものです。感動が人間を次なる希望へと駆り立てるのです。もし、希望があって感動が伴わないなら、それは希望ではないのでしょう。
最初の愛はおばあちゃん。失った後で、しかも大分後になって気がついた。恋愛に関心がなかったのは、おばあちゃんには誰もかなわなかったのだろう。愛しているなんて意識しないものが本当の愛なんだろう。いなくなって心が暗い日々が続いても理由も解らなかった。無気力になり、世界が暗いのが不思議だった。毎日が暗く思えた。私は自分のガキを見ていて、無精に腹が立つ時がある。余りのくだらなさに話しを聞く気にもならない時がある。あらゆる勉強をしているが、大切なものが見えていない人間の言葉は心に響く事はない。内容のない言葉の戯れなら楽しめたら、それでいい。本人が思っている程には意味はない。よっぽど暇をもてあましているのだろう。知識だけの言葉の虚しさはイライラする。上面の言葉は人の心には届かない。何も残らない。ヘレンの事を書いた文書にも、ヘレン自身の言葉だけが、ヘレンの心に思う。僅かに残されたヘレンの言葉には説明は要らない。
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